不毛、作り話、諦めの悪さ。この三大用語に要約される敗戦後の日本人の精神構造は、小林秀雄の世界にもくっきりと陰を落している。圧倒的な科学の勝利の前で、断念のロマンに身を投じた彼の反骨ぶりは、当時の敗北主義達が愚民政策にそっくり足を浚われたことを思うと、寧ろ僥倖とさえ言える。何はともあれ、晦渋極まりない自己保身術、それも反デカルト主義者・ランボーの奇怪な思想を踏まえてのことである。今でこそ、神話の森で黄金の斧を振る人として知られるが、そもそもの馴初めは、硝煙が上がる藪の中でのこと、本人が先ず、身震いした筈である。近代的自我がデカルト的明晰さ抜きにありえないとしたら、これはもう不整脈だらけで、全くお話にならない。本邦の穏健派が挙って、欧化のお手本とした河上徹太郎の教養主義の暗礁ともなりかねないものであった。こうして問答無用の主観主義は前人未踏の天才論を引っ提げ、東西の壁を打ち壊し、脳髄の砦に立て籠もる。−セザンヌ、ゴッホ、モーツアルト、等など、思いつく限りの仮面を被って・・・。
遅ればせながら登場した茂木健一郎氏は、小林フリークの典型的人物。学会の最先端で活躍する有名な脳科学者でもある。本書は現場証言として画期的な論考とも言われる。「クオリア」が、氏ご自慢のキーワードらしいのだが、昆虫採集の捕獲網よろしく、むやみ矢鱈と振り回すだけでは埒が明くまい。小林秀雄には、理系のボンボンなんざ、軽く一跨ぎして、忽ち、豪雨で押し流すだけの、真夏の雷雲の如き生成のドラマがある。小手先の逆説を弄しただけでは、深遠に橋を架けるなんて無理。形而上の背理とアグレッシブな論法が幾重にも錯綜し合い、途轍もないオプセッションとなって襲いかかる。同じ脳内現象にしては、第一、目方が違い過ぎはしないか。「脳なんてものがあるにも拘らず、ものを考えるのだ。」となれば、単なる辻褄合わせで鬼の頚を取るなど、科学的迷妄もいいところだ。
意識の持続と他者、このモチーフに突き動かされては立眩み、曰く言い難い建造物の支柱に寄りかかる。その柱の確かさを体感しながら、伝えたい言葉がどうしても見つからない。最晩年には、「時間が足りない」を連発しながら、蒼ざめた飴のようにぐったりとなった時間を持て余す。だが、誰かが飛んで来て、手を貸すという性質のものでもない。寧ろ完璧を目差した表現者としては至極当然の帰結であろう。中原中也も同様の轍を踏んでいたに違いない。
それにしても、この人、「竹光で腹切り」には驚くね。多分、勲章物のイロニーとして手厚く評価されたんでしょう。
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