詩人・嵯峨信之には晩秋の海がよく似合う。ことに外房の砂州と波打ち際の荒削りな景観は詩のモチーフと呼応していたように思われる。緩急自在な言語操作は抽象の度合いが深まるにつれ、具体物の加圧で存在感を増し、感性も磨かれる。
しかし、どの地名も用件も詩のバイアスが懸かっている。いざ何処で何をとなると実感として定かではない。詩が詩人の鞘に納まることで風景が漸く我が物顔に振舞うのだが、謂わば概念の地理学とでも呼べそうな構造下で感情の起伏が生じているらしいのだ。
この一巻に納められた詩集以外に是と言った著作はない。詩壇の公器としての「詩学」の編集に携わるほかは、ただ、ひたすら詩か沈黙かの二者択一の人生を歩んできた。時たま自作の詩の朗読はあるにはあるが、一切ノーコメント。詩人にとって詩を語ることは詩を軽んじることでしかないのだ。そんな信念に基づくストイックな高邁さが全篇に漲っている。
アフォリズムめいた思考の綾が、詩のフォルムとなり、シンボライズされた命題が心の奥底を揮わせる時、珠玉の如きそれぞれの詩句の、詩の一行の持つ深さには驚かされる。
歩みの王のぼくという下僕よ 「永遠」
そして死者だけが槍の重さを知る
「小品」
立派な一人歩きも出来ているこれらの詩片を、ではどうやって文脈の中に溶かし込むのか。やはり、末流の徒とはいささか次元の異なる、詩人一流の思弁に支えられた奥深い諦観があった。
三年も一瞬、二千年も一瞬だなあ・・・。
永遠を時間の積とする固定観念は一瞬の認識のなかにもののみごとにアウフヘーベンされている。しかし、日常の体験の殆どは遅きに過ぎた。繰り返し出発点にたつことで、その遣り切れなさを甘受する。そこに抒情の弦を秘かに忍ばせてあるのだ。
遅刻者である
何ごとにも
ぼく自身に到達したのもあまりに遅すぎた
ああ どうしたらいま自分にむかって笑うこ
とができるか
川を越えてもさらにその向うに別の川が流
れている
生きるとはついに終ることのない到達であろ
うか
「遅刻者」
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