どう教え諭したものであろう、55歳の働き盛りに、すっかり病み衰えた朔太郎は、死の床で頻りにおだまきの花を見たいと母親にせがむ。生憎、季節はずれの花であった。著者・最晩年にあたる本書の起草は、破天荒な天才詩人の生涯ゆえに、人生の辛酸を嘗め尽くさねばならなかった家族の禊のようだ。「父・萩原朔太郎」で文壇にデビュー、その恵まれた才筆により「蕁麻の家」三部作では、ショッキングな家族のほぼ全貌が描かれることになるのだが、いまひとつ、画竜点睛を欠く恨みがあった。何故、おだまきの花なのかは敢て問わない、この作品の淡々とした筆遣いに、詩の詩人としての生き様がみごとに浮かび上がる。それも著者自身、硬く禁じていた方法、−詩の世界から現実を見詰め直そうとする試み、によってである。
語りえぬことこそ理解されるべき当のものである。正確無比の調律で知られるウィトゲンシュタインは譜面を無効とした。しかし、朔太郎に関しては娘の観察が全てだ。語りえぬものは語られた中身に読み取ることが出来る。この作品は著者の内宇宙の顕現であり、詩の卵のようなものだから・・・。諦めに徹した詩人の厳父も奥の院から登場する。無用の人を中心に奇妙な家族が愛の円環を閉じる時、著者は作家として完結する。
さて、生きる理由を欠いた詩人がこの世の最期に見たいと言ったおだまきの花とは? <苧環。キンポウゲ科の観賞用多年草。高山に自生するミヤマオダマキが原種といわれる。高さ約20センチメートル。葉は白色を帯びた複葉。四〜五月ごろ枝頭に碧紫色または白色の五弁花を開く。花弁の下端は突起を出す。萼片も花弁状。いとくり。>と「広辞苑」にある。実に変哲のない花だ。霊界の胚種とは到底思えないのだが、偶々読んだ澁澤龍彦の「フローラ逍遥」という絵入りの美しい本にこんなことが書かれていた。その形姿が鳩に似ていることから聖霊のシンボルとなり、<貞淑の怪物性>と並び称されてからは不義密通の合言葉となった、と。この故事に倣うなら、真に朔太郎的な花である。なにやらノバーリスの「青い花」めく神秘性も仄かに漂い始めるではないか。
おだまきの花を語ることなく、この本自体が苧環の花となって馥郁と匂う。
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