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日付:

2006/05/16

タイトル:
吉岡実散文抄 <詩神が住まう場所>
著者:

吉岡実

出版社:

思潮社

書評:
 

 「詩神が住まう場所」−それは下町の貧乏長屋であった。衒学的で晦渋な作風で知られる詩壇の寵児にしては、些か不似合いな感じがしないでもない。事実、吉岡少年の傍らには一冊の書物もなかったと言う。そんな信じられない回想に始まる身辺雑記だが、職人肌の技巧が随所に冴えるみごとな文体である。彼の場合は散文も詩と同様に、編集者泣かせの遅筆で有名だ。牛の胃袋の反芻ではないが、言葉が脳の皺の複雑な襞に揉まれ吸収されて、その一字一句が丹念にペン先から滲み出る。彼の記述に従うならば、この漆黒の天使の錬金工場から立ち昇る煙と排水が、銭湯のそれと混ざり合っていたことになる。

  山の手のお嬢様は、まだ産毛の抜けきらぬうちに嫁がされ、団子の串刺しご一統さまと雛壇でうたたね。それに比べて、あの持ち前の気性の荒さだ。喧嘩の速さではそんじょそこらの悪餓鬼どころではない。評判など一々気にしていたら、ぐうたらなミューズの思う壺、頭を撫でられて終わりである。性悪な天使の銀河の灰汁抜きのように、晩年に近づくほど濃密になる彼の文体は、どうやらそんな出自と無縁ではなさそうだ。言語上の異類婚から詩が生まれたが、その方法論でもある散文は唯の楽屋話で終わらない。強かな反骨主義に貫かれている。文法の釣瓶落としのような文脈は吉岡流開眼と言ってよく、朔太郎のデフォメの世界をなぞりながら、そっくり異化した感がある。超現実主義者たちの勿体ぶった道具立てもなく、言葉は裸のまま舞台で踊る。

  言葉を字義通りに解釈せず、新しい詩の成人式に立ち会った吉岡実だが、生活者としては誰よりも遅れてやってきた。そのくせ、地道で人情味溢れる男臭さもある。戦中派の宿命である内面のジタバタを正直に生きた男の、戦後の花道は、「遺書」を処女出版することから始まる。ひとつの時代の変節期には、アイロニーの権化のような人物が必ず現れ、歴史上の重要な役割を果たすのかもしれない。


 

 

 


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