「 私は豚になりたい。珍妙なものになれるのは人間だけだ。」と画家ゴーガンの手記にある。幸い彼にはタヒチ島という楽園があった。この人間嫌いの珍獣カタログに、愛書家なら何と書かれたであろう。−人はどんなものにもなる。が、奇矯さで、この一連の呪われた人たちの右に出る者はあるまい。燃やせばあえなく灰に帰す、何の変哲もない紙の世界だが、古の神々は思いもよらない影を落す。これは幼少の頃の体験がきっかけとなり、稀代のコレクターとなった男爵家の嫡子ならではの鬼気迫る物語である。古書のページに残された女の一筋の毛髪と、口紅の付いた指痕への在らぬ恋慕から、主人公の回想は始まっている。
実在のモデルと思しき人とは同病相哀れむ間柄であろうか。出久根達郎の「さっきだん」を読んで漸くホッとするのだが、第一話から第六話まで殆ど息つく暇もない。その名を「せどり男爵」と自称する登場人物は、並みの酒客であれば、一杯聞し召すだけで腰を抜かすだろう、アルコール純度の高いカクテルの、創案者にして愛飲者でもある。この屈強の人の手引きで、これも又、桁外れに純度の高い究極の書痴の世界にどっぷり漬かることとなる。
紙に印刷したものを綴じ合わせて装丁を施す。およそ書物と呼ばれるものの原型と言えばこれだけである。しかも、条件次第では、富も名誉も擲って狂奔する人もあるのだから、常人には理解しがたい神通力と言うものだろう。シェークスピアのフォリオ版のエピソードにスポットが当たるや否や、物語は急転直下、俄かに犯罪めいて来る。
この世界での人間心理は、ルナチックとかフェチの概念で括られはしても、強迫神経症と言う解釈は余り一般的ではないようだ。しかし、時には猥雑、精妙で果敢な夢に振り回されっ放しの、神出鬼没のファントム。千歳一隅の獲物の前では、なんと、失禁するらしい。これはゴルフで言うイップス病によく似た症状ではないのか。
刺青が伝統的な文化であることに異論はない。その好悪の感情は兎も角、原始時代の儀式の名残さえ感じる。しかし、愛書家の世界は、これとは全く似て非なる文明病と言えないだろうか。極端な話、本人にしか、喜怒哀楽の感情は湧かない、そういう人たちだけに特化された世界である。人肌を鞣して装丁する、猟奇的な蛮行が最高の美学となるには、かなり屈折した倒錯的な価値観がなければならない。藝術と言う聖域に高められた意識かどうかの判定は難しい。そういう謂わば、文明の烙印を押された極道の世界である。だからと言って、単なる奇人や反面教師としてのみ記憶するには余りにもユニークな人たちでもある。世の中の貧乏くじを好んで買い集めた人と言えば、それが一番、的を得ているのかもしれない。
この小話集を見る限り、梶山秀之はスケールの大きいショート・ショートの達人でもあった。
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