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日付:

2006/07/03

タイトル:
政治と宗教を考える
著者:

創価学会編集部 編

出版社:

第三文明社

書評:
 

  一見もっともらしいが、よく考えてみると、さっぱりわけのわからないテーマである。政治と宗教を考える? いや、そうではあるまい。政治と宗教を論じながら国家に就いて考える、というべきだろう。これなら良く解る。即ち、れっきとした国家論として解釈すべきなのだ。元々、国策としての宗教活動なんてある筈もないし、まさか護教精神が政治的難問を解決するとも思われない。宗教国家を実現すべく「立正安国論」が書かれたわけではないのだ。権力行使の思想ではなく、あくまでも権力擁護のそれである。間違っても反権力思想による政治活動ではない。確かに国家を人間の場に引き寄せるのは宗教だが、その手足となるのは政治をおいてほかに在り得ない。この種の議論が不毛なのは、最初の一歩にしてからが、目隠しをされて身も蓋もないことになっているからだ。頭の固い連中が鉢合わせをしている隙に、誰のものとも解らない敷地から、凡愚の肥大漢が、やすやすと垣根を跨ぎ超えたりする。

 祭政一致から代表制民主主義へ、この歴史的必然はどの国にも当て嵌まる。ただ、ニュアンスの違いがあるだけだ。民主主義が数の原理に支配されることから、特定集団利益社会と言う見方もある。本来は人間的合意の形成過程が民主的でなければならない。既存のイデオロギーを闇雲に摘要する底の浅い教条主義は時代精神を逆撫でするだけだ。影に日に登場する圧力団体やロビースト達、この特権的で迎合主義的な大衆社会には、一方で、新・保守主義なる反動勢力もある。いまや創価学会も巨大集団となり、そのパワーたるや、宗教活動におさまりきらない。権力の一角に重要な位置を占めている。宗教理念が政治的な現実と拘るとか、偉大な個人が政策に影響力を持つとか、何かそう言うレベルの問題ではなさそうなのだ。大乗精神でインドの民衆を率いたガンジーを危険人物視する者が居たら、もう間違いなく平和の敵であろう。しかし、富士大石寺から霞ヶ関へ、国立戒壇の呪文が解けて、まるでガダラの豚のように雪崩込んだ、不敬の集団を危ぶむのは、何もひとり私だけではあるまい。実に真っ当なことなのである。


 

 

 


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