自由とは何かに就いて考えるとき、誰でも最初に気づくのが責任の所在を背景にしているという事実である。自由意志にはその目的によって正反対な方向性がある。他者からの解放に向かう場合は無限責任となり、自己責任100%の世界に生きている。他者へ向かう場合は必然的に分かち合いの世界に生きることになるから有限責任である。前者は理念的にあり得ても実際は不可能であろう。自己責任100%は天地創造の神の座にのみ相応しいのだから。自己が他者と無関係となるのは死においてしかありえない。サルトルは死を「全的他者」と定義している。戦場での一か八かの選択こそ真の自由と語ったのもサルトルだったが、一体、生死を分かつ見えない壁の何処に<責任>と書かれているのだろうか。自他の忘却はまさしく幻影である。従って、生ける自由は制約の中にしかない。
生きることは倫理的要請であり、人の存在理由は責任の所在が明らかになることと言っても差し支えあるまい。この万人に等しく与えられた生の原理を、とかく私たちは自由と平等の対立的概念で歪めてしまいがちだが、平等は自由を測る物差しに過ぎず、自由は自由度、つまり許容範囲における当為である。存在が当為となるとき、善悪の確執よりも善と善の確執の方がより深刻な問題を投げかける、と言ったのはヘーゲルだが、道義的な価値意識の混乱から優先順位を誤認してはならない。一方、物理的な制約下で作用反作用の法則に異議申し立てたをしたところで何も始まりはしないだろう。むしろ「しっぺ返し」の法則が世の中を丸く治めることを実証したゲーム理論さえあるくらいである。
ことほど左様に自由が平等と異なるように、自由が無責任とも異なることを、微に入り細をうがって論及したのが本書である。民族、集団、個人の理論的枠組みの中から、「役割と本当の自分」というコンセプトが摘出され、戦争責任の杜撰極まる審判にスポットが当てられ、その後遺症でもあるかのような戦後世代の「解離」現象に至るまで鋭いメスが入れられている。本書の上梓にあたって著者が新書版に抵抗を示したのは、福音書的なエッスセンスがなければ大義名分化されないとする専門家の良心からだが、改めて新書ブームの背景にある混沌とした世相を痛感させられた。随所に鏤められたエピソードの中でとりわけ印象深いのが東京裁判での証言だが、「誰にも覚えがないなら何故戦争になったのか?」と言って呵呵大笑した大川周明の問いは、そっくりそのまま当今の行政上の白日のミステリーにむけられよう。或る戦後帰還兵のノートには「一番いい奴が帰ってこなかった」と記されていた。この感慨とも嘆きともつかぬ言葉と「もう過ちは犯しません」という闇の奥の声と、彼方の宇宙から「地球は青かった」と送られて来た20世紀最大のメッセージを結ぶ線上に、私たちは人類の未来をどう実現すべきなのか。著者の結論が<共生>という重い思想であることと無縁ではなさそうである。
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