漸く空も白みかける頃、突然、水面すれすれに飛び立つ鳥影がある。ツェランの詩はいつもそんな風に始まる。沈黙をベースにした発語はトラウマを引き摺っているようで如何にも痛々しい。もどかしい単語の繰り返しは、癒しを祈願する呪文のようだ。
かって、ツェランのように、言葉が事件として扱われたことはなかった。生と死、愛と悲しみの裂け目で、ホロコーストの悪夢が否応もなく言葉に残酷な輪郭を与えてしまう。
例えば「言葉たちの宵」にはこう歌われている。
言葉たちの宵−静謐さの中に水脈を探る者!
一歩また一歩、
さらにもう一歩−きみの影法師が
その足あとをかき消すことはない。
時代の傷痕が
ぱっくりと開いて、
この土地を血の海にする−
ここには、生身の人間の苦しみを百倍にして責め苛む感受性の悲劇がある。しかも、言葉を通してのレジスタンスには向かうべき相手はない。彼によれば、人類の歴史には勝者も敗者もなく遅れてきた者がより多く世界を知るだけだ。言葉自体に意味を与え、最後の預言者として彼は声を限りに叫ぶ・・・
それに影を与えよ。
と。
実際、彼はセーヌ河に身を投じ、言葉自身の影となってしまった。生の不条理が束ねた詩の花束は、「閾から閾へ」音もなく手渡されたことになる。
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