「(だが、)人間は考える葦である。」−これぞまさしく疾風怒濤のマニフェスト。我らがパスカルの面目のすべてはここにある。信仰を欠いたならば恐怖心に打ちのめされるほかない<無限>にホンネで向き合おうとしたわけである。いわば、理性による自己救済の試みだ。かつてはこのキャッチコピーが若者の脳裏に深く刻み込まれ、哲学的素養もこれさえあれば充分と言いきれた時代があった。しかし、今や何処もかしこもデカダンスの花盛り。資本主義社会は思考停止社会でもある。まさしく沈黙は金、下手な考え休むに似たりである。老若男女を問わず、ひとはハシの動きにしか気を奪われなくなってしまった。惨たらしい金満政治の爪あとが貧困であり、この無限の欲望の落し穴こそ天国への扉である。
自由だからこそ自己責任を問われる。乗り捨て御免の筏社会ならルールは要らない。日進月歩の技術社会に制度の陳腐化はある程度仕方がないしとしても、本末顛倒の規制強化では困る。信頼に足る衣食住の安全は許認可制度への丸投げでは得られない。論旨破綻とラベルフェチこそ元凶と捉え直し、一連の不祥事件の核心に迫る本書は真にタイムリーな警醒の書である。水戸黄門の印籠から憲法第九条まで、人治・法治を問わず自己言及のない欺瞞社会に明日はない。法制遵守で金縛りとなり、しかも大国の干渉には限りなく無防備な日本列島。防御と攻撃を繰り返すアングロサクソンのロジックに倣えとは言わない。だが、禅の公案や不立文字が思考停止のステロタイプであれば問題の根は深い。ゼノンの逆説に始まる思考の罠は至る所で人を貶める。目の前の石を蹴り、バークレーの説に「ほら違うじゃないか」と反論して失笑を買った高名な学者のエピソードもある。
さあこれでもかと著者は思考停止社会の症例に薀蓄を傾けるのだが、安全神話の崩壊から身を守るには、我々一人ひとりの脳の活性化こそ急務であろう。
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