行動原基としての白い画布。実際のところ、空間の呪法とも魂の交霊術ともとれる画家の筆先は、ラスコーの洞窟から一歩も外へ出てはいない。この初源からの、もっと正確には初源への、終わりのない旅。もしそれが現実であるならば、悲劇は底なしで、しかも日常茶飯となるに違いない。
一体、何がどう変わったと言うのか。混沌を武器として、深淵に躍り込む狩人よろしく、自分の仕掛けた罠に堕ち、エントロピーの増大に爪を立てるだけなのか。20世紀の大いなる遺産は逆説を生む。具象絵画の牙城は個性ある逸材にほぼ埋め尽くされ、その一角を崩すには、ひとは老年から、若さの回復に向わねばならない。完成とは最終的な問いのことでもある。こうして謎を蒸し返す貧者の旅は地団駄を踏むだけとなる。
バゼーヌはアンフォルメル絵画華やかりし頃、マネシェ、スーラージュ、アトラン等とともに、奇妙な誤解がもとで脚光を浴びた画家の一人である。描く対象を持たぬ彼らにとって、言葉は創作の一部。理論が色と形に道を開け、生彩を与えもする。この絵画に於ける理神論者たちは、眼前の風景よりも、ブラックやマチスのパレットの絵の具の痕跡から学ぶことの方が多かった。
「忘却は神の恵み」−このブラックの言葉を合図に、前衛絵画の様々な聖地巡礼が始まる。或る批評家はこの活動をいみじくも「熱い抽象」と呼んだ。この一見矛盾した概念に最も似つかわしいのが、バゼーヌの画風であった。
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