A=Aの同義反復の繰り返しでパワーは増幅する。ちなみに<平和>のキーワードをこの等式に代入するとどうなるか。平和は平和を愛する人の平和的な解決方法にあり、この平和主義者の平和活動が世界平和を推進する、とまあ、こんな具合であろう。作曲者のラベル自身が気違い沙汰だ、と吐き捨てた名曲「ボレロ」はタクトの一振りでフィナーレに突入する。一千万市民の熱狂的な平和運動の音頭をとる池田大作には肝心要の拍手喝采が起こらない。徹頭徹尾、観客席に顔を向けての演奏だから興ざめなのだ。同義反復はこの場合、記譜法を忘れた海の狎れあいのざわめきと空疎な自画自賛である。本人が渇望するノーベル平和賞など見当違いもいいところだろう。
それもその筈、お金で買える勲章は質草にもならないが、ノーベル平和賞はお金に代えられない。<壮麗天使>の光の帯が地球をのべつ幕なしに七回り半したところで地球システムとは噛み合わない。そもそも歴史を動かす歯車なんかじゃないから、あのくそまじめな馬鹿力には開いた口が塞がらない。平和とは<戦争抑止力であると同時に戦争力である>と言う恐るべき二律背反に直面してこそ平和主義者である。即ち平和とは平和のことではなかった。レミングの集団自殺ではないが、それいけドンドンの平和運動は地殻変動に伴う単なる地滑り現象でしかないのだ。
「池田先生とその弟子達」の物語が完結するのは地球全体が池田信者となった時、というほかはなかろう。それこそとんでもない話で、かつてヨーロッパ全土を恐怖のどん底に陥れたファッシズムの人工的な疫病と変わりがない。この大袈裟な平和ショーの舞台裏にはカルト教団の黒い手が見え隠れする。脱・日蓮正宗は創価学会活動の当然の帰結だが、その正当化の試み自体が論理破綻を免れない似非弁証法に過ぎない。本書の著者の常識的な見解を疑う積りはないが、学問と救済儀式の厳密な立てわけが大乗精神となったインドの思想風土にあって、発展途上国の政治意識がこのような外交辞令となる歴史の皮肉に思い至った。その内容は兎も角、日出る国・日本の何かが熱いことは確かなのだが・・・。
「平和ほど、尊きものはない。平和ほど、幸福なものはない。平和こそ、人類の進むべき、根本の第一歩であらねばならない」―大河小説「新・人間革命」の書き出しらしいのだが、いまどきの小学新一年生の作文教室でさえ、こんなのは退屈な化石標本でしかないだろう。
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