首や手足をもがれた古代彫像のトルソが、美観を損ねることなく鑑賞者の心を打つように、主語や動詞を欠いた発句・17文字の措辞には不思議な存在感がある。時間が音の情景を描いて屯しながら、読み手の視線を絡めとり、知性と感性を座標軸とした交点Pで明滅する。それが原型思慕の半具象的な未完状態とでも呼べそうな彼女の詩作品の印象である。愛弟子の句集を手にすることなく他界した宗左近だが、師の炯眼が彼女の魂に見た閃光がこれらの一行詩であった。五七五のリズムに乗って自在に変形する絶妙なレトリック、短歌的な完結性を欠いた句型はトルソさながら、既に発表済みの二詩集の狭間に無造作に投げ出される。殊更俳人ならずともよい、句の発見の喜びさえあれば。在来詩にない切り口の新しさはタダゴトではなさそうだ。
蝸牛 ふと辷りだす瞬間(とき)があり
蝸牛 けさ向かいけり 雲の峰
恐らくは透徹した自己凝視による、これが彼女の精一杯の世界観であろう。その奥深い聴覚の森から詩が気配の雫のように毀れ出る。やがて物と空間の、対象と背景の、天と地の分離が始まり、自明の眠りから呼び覚まされた記号群が、彩られた舟のように岸を離れる。いやそうではあるまい、寧ろ内面的な拘りによって取り残された自我が周囲の広がりを意識し、その狭間からイデアの雲が生起する、と言ったほうが当を得ているのかも知れない。舟は中心にある以上、不動なのだ。
朝まだき 星の匂いを流しけり
薔薇といる空の背後(うしろ)を通りけり
白芙蓉 ひと花ごとの空が揺れ
下天と浄土の往還図、その余りにも美しすぎる浄土は地獄絵さながら、舞をやめた天女の髪を襲い背骨を通って踝に果てる。
鉋屑 冬夕焼 燃えうつり
ここよりは 内側(うち)になだれる蝉しぐれ
フランス象徴派の詩人・マラルメの詩法、イベルポール(対極)とエタ・ダーム(魂の状態)と一脈通じるものがあろう。
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