「斜陽」が書かれたのは、<不安>か、さもなくば<不機嫌>のどちらかが筆を執らせていた時代である。この文人気質、
どう転んでも大したことにはならない。予め、強みも弱みも知りぬいた上で時代が決めたことだ。ちなみに、天性の大らかさで生活を直視した志賀直哉を除き、現状不満型は洋行帰りが多い。これら<不機嫌派>の作家たちの特徴は作中人物の自殺。これにはヴァリエーションがあって、代償行為の重さを感じさせる。漱石・鴎外・荷風ら舶来御三家の殆ど常套手段であった。
メメントモリが奇妙な観念の火照りとなって、終生燻り続けたのは太宰治だ。彼はれっきとした<不安派>の作家。そのペンネーム通り、死は彼にとって、罪に堕ちた者が丸くおさまる場所、収まりきらず食み出してしまったのが生ということになる。彼のような正直者は、申し訳ないと言いつつ引き下がるしかない。(誰に対してかは不明だが)。札付きのワルと呼ばれるには世間を知らな過ぎるし、弱みが強みとなってしまった人間が本気で生きられる筈もない。心中事件の泥臭さは論理的帰結でもある。この芝居がかった自殺は、もう一人の無間地獄の侠客、芥川龍之介の方法論でもあった。
ひとを酔わしむる天才も、自らは麻薬に頼らざるを得ない。思えば奇妙な教祖もあったものだが、この平成の作今、太宰ワールドは我が世の春だ。若手作家がウヨウヨいる。胡散臭い講釈や説教に飽き飽きした連中だから、上手い具合にオチがつく小話がお似合いなのだろう。但し、自殺はファックのあとでごゆるりと、これが<三度目の正直>に代わる合言葉だからくれぐれもお間違いなく。
死も煎じ詰めてみれば時間の問題でしかない。「斜陽」は死に損ない同士が傷を舐め合う崩壊家族のフォークロアだ。優柔不断な主人公は、何かにつけ中途半端な自分自身に嫌気がさし、物知り顔の破滅型の弟や、どんな振舞いにも華族の気品を感じさせずにはいない母と、どうやって折り合いをつけるか思案に暮れている。ところが、いよいよとなると、大向うも切らずにさらりと事態を受け流してしまう。この呆気らかんとした結末は、斜陽という切捨て御免のタイトルが既に暗示していたことでもある。
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