著名な宗教学者による初の創作劇「小説・日蓮」は、従来型の聖人伝でも歴史小説でもない。本書は<何故今、小説なのか?>と問うメタ文学志向の読者諸氏にはうってつけの、新時代に相応しいシビアな思想小説である。登場人物は最小限に絞り込まれ各々が思想の核を巡って符牒化されている。物語が収斂する本尊図顕の経緯に就いての実存的な解釈は灰汁抜きされた宗教観、いわば見切り発車的な生命論であって、スピノザ流に咀嚼された天台本覚思想も随所に見え隠れする。実証主義的に再現された竜の口の刑場場面はさすがに圧巻だが、心なしかゴルゴダの丘の受難劇を髣髴とさせる。一見、吉川武蔵の又八的役どころで頻繁に登場する源空丸は架空の存在だが重要人物、単なるレトリックに留まらない。パートナーの二十日鼠と生体実験に挑む主人公の悲劇を描いた<アルジャーノンに花束を>の絶妙なパロデイと言えなくもない。それにしても、浄土宗の念仏が大曼荼羅の胚種とは驚天動地の大胆極まる仮説ではないか。源空丸は矮小化された法然を含意した綽名で、日蓮により本名を抹消されたこの若者は念仏者だが「名付け親」の日蓮なしには生きられない。他者のアイデンティティを脅かす教条主義の盲点から解放されない限り纏わりつく。日蓮にしてみればこの殉教者は希望の光でもある。正法弘通の使命に生きる日蓮の最終課題は仏国土実現、その関門は難信難解の超宗派思想なのだから・・・。
「文学は可能か?」と根本的な問いに引籠もるマラルメの灯下の紙面やマッド・サイエンティストのニコラ・テスラの火花を散らす方程式から、現実世界の何を読み取ればよいのだろう?そもそも仏国土実現は可能なのだろうか? 本書のイントロは源空丸の夢に現われた「天上大風」の如く襲来する国難の予兆である。西の空から東の山へ一斉になだれ込む、覆面の青い騎士に導かれ鎧兜に身を固めた馬賊の群を一体どう迎え撃てばよいのだろうか?国策は床の上だが、生活は空の下にある。天変地変に撹乱された民衆救済活動に巻き込まれ大工・漁師・天上人の渾然一体となったこのドラマチックな世界、宇宙の隙間風は未完の一大ロマン「日蓮」二巻の全ページを一晩で嘗め尽くす。
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