そのとき雨が降った
傘屋と雨屋のすぐ前の
マリンスノー通りに
やけに粘りのない白くゆるんだ雨が
わたしの胃をふるわせ踊らせて降った
くろぐろとした雨のネガティヴの筒の中を
とき恰も安保闘争や経済高度成長の煽りをうけて、モダニズム一辺倒の詩壇が揺らいでいた60年代の激動期である。現代詩最前線の青田刈りは熾烈を極め、彗星の如き清水昶の登場と、少し遅れてブレイクした天沢退二郎によって、はためく軍旗は完全に塗り替えられる。
時代は病んでいる。スーザン・ソンダクの言葉を借りるなら、「詩」は隠喩としての病いとなった。ナルシスト・清水昶の暗い夢は病いについてのロマンチックな観想から生まれた。だが、天沢退二郎の詩の世界は病いそのものの完全武装である。言葉は行為と夢に引き裂かれ、記号の野のあちらこちらに時限爆弾を埋め込む。―殆ど手当たり次第だ。意味という万有引力から開放された言葉たちは、はるばると宇宙の岸に出て、饒舌な島巡りの旅を賞味し、ぬかりのない事件簿の山に燃え殻となった星の匂いを移す。その不可解な修飾語法は、よくもわるくも現代詩のお手本となった。ものの内面を問題にしたがために、屈折した情念のアジテーションは、気分としてなら、アニメオタクの劇画調である。その詩の世界はこんな風にも始まる。
ダリヤ判の男はかたい平たい首のばし
わたしの剣に沿ってするすると失禁したが
わたしたちはもみじ型に輪になり
流れをおよそ八つの切り身に導いて
一気に気合い睾丸の舟を仕立て
妄想逞しくした当世風の地獄巡りの経文は女の膝枕で鼻毛を抜かれる三秒間の夢の軌跡でもあった。
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