世界桂冠詩人の栄誉とやらも、本人以外は預かり知らぬことではなかろうか。戦後日本のモラトリアムの箔付けになるとか、戦時下のレジスタンスに花を添えるとか、そんな評言が不適切なのは申すまでもない。まして、学会の草の根パワーがホイットマンの「草の葉」と同根などとは聞き捨てならない暴言である。大衆と民衆の違いは歴然としたもので、残念ながら我国には、「エコノミック・アニマル」の蔑称があるくらいだ。もし、魂魄を風に染め流したと言うのであれば、地球市民も仏法民主主義も言い過ぎではない。しかるべく威儀を正して、耳目を傾けよう。本書に拠れば、非のうちどころのない高潔な人物が、奇跡的に存在したことになる。無論、池田フリークなら大きく頷くところだ。
原理主義が爆弾を抱え込むのは、日興上人の「日蓮本仏論」で明らかだ。鬼っ子のように爪弾きにされた挙句、身延離山の已む無きに至った。この発火装置は今だに燻り続けている。問題は、「法主本尊一如論」や「池田本仏説」にいつ飛び火しても可笑しくはない冨士門流のマニュアルにある。悲しいかな、どの影を踏み、どの枝を折るべきか、皆目、凡愚の身には見当も付かない。点から線へ、初代牧口会長の衣鉢を受け、面的展開の端緒となるや急逝した戸田城聖だが、はやくから内部抗争の泥試合を予言していた。それが今日、紛れもない事実となったのが、宗門と信徒の対立である。なんだか、権威と権力の混同、主権在民の代表制民主主義が象徴天皇を税金泥棒と扱下ろすのに似ている。最も、まだそんなことにはなっていないが。
神のものは神へ、王のものは王へ。二股かけた命の河が流れる、−まるでズボンの皺を伸ばすように。SGI会長のリーダーシップで、「人間を眠らせる宗教」から「人間を目覚めさせる宗教」へ、世の中が一斉に向きを変えると言う。又、死は生の欠如ではなく、生も死も活力に満ちている、とも言う。成程、ご説のとおりで、我々の胃袋の活力たるや、四六時中、エトナ並みの噴火状態だ。論より証拠、ニッケン、ヤマザキ、ナイトウの巨悪を骨抜きにした超人、この模範生を見よ!勧善懲悪のごつた煮を瞬く間に平らげ、急ごしらえの腹を抱えて、ナショナルブランドに腕を通す。
著者は「<死後の救済>の為ではなく、<生死の苦しみ>を解放する為に説かれたのが仏教であり、釈尊自身、出家の弟子の参列を拒み、自分の葬儀は少数の在家に委ねた」として、「仏教の本義に悖る<葬儀><回忌法要>を行い、権力の出先機関となった僧侶が人心の管理にあたった」と本書の論旨を結ぶ。これで創価学会の現状は概ね正当化されたことになる。
タクラマカンの沈む夕日に染められて、オムマニパトメフムの呪文は銅と真鍮の煌びやかな雲のように悠々と山頂を流れるだろう。しかし、友人葬のお題目は、汗と埃にまみれ、抜け落ちた壁や天井を出てゆく。何処へ? 全くの話、何処でもないこの場所へ。霊峰冨士は限りなく遠ざかる。
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