ニーチェ自身、<ツァラトゥストラ>は世に問うに200年は早すぎた書物と豪語している。100年後の現在、漸くその悪名を返上して自己啓発の書となった。−あと半世紀も経てば、聖書と肩を並べているに違いない。尚、完全に理解されるまで一世代・50年の歳月は要するだろうから、これでどうやら本人の想定内だ。古今東西に渉る識者が、史上で最も難解な書物と口を揃えるのも由なしとしない。
自意識の全面開示は危険な自殺行為。ほんの1%の安全弁を働かせるだけで、思想の足場固めをしたのがニーチェである。案の定、その1%の命綱が断たれるや否や、己自身の内部の力の過剰に負けて発狂してしまった。しかし、ここにこそ、自意識ゼロの飼い殺し状態から、<人間は克服さるべき或るものである>と宣言して孤軍奮闘した、実存主義の開祖としての面目の全てがある。何故なら、「克服即没落」は透徹した超人思想の事実認識にほかならず、「永劫回帰」の試練に耐えた証拠でもあるからだ。自縄自縛の共有の場が吐く息は臭い。彼らの道徳は屡、善の名のもとに貴人を骨抜きにする。没個性的な模倣集団でしかない大衆社会を嫌悪し、彼は生涯、高邁な単独者の道を選んだ。反教会主義者なら当然の運命だが、その内面の苦悩は測り知れない。わけても創造的破壊の精神によって完成した「ツァラトゥストラはこう言った」は、ニーチェ哲学の総決算書であると共に、前代未聞の「亡びの歌・戦慄と狂気の書」でもある。
これまでは、注釈書付きの原典読解が本邦のニーチェ研究の主流であったが、訳者はオリジナルの再現に全神経を傾注し、注釈は一切なし。読者には恰も素手で険しい岸壁を攀じ登らせるかのような印象を与える。成程、健脚家ならずとも標識だらけの名山には誰もがうんざりであろう。悦ばしい山頂の空気に包まれるには、これが一番良いのかもしれない。「だれでも読めるが、だれにも読めない書物」−この謎めいた警句は、著者自身が巻頭に掲げた唯一の標識である。
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