広隆寺の弥勒菩薩を拝観した詩人・吉田一穂は、その時の印象を「半眼微笑」というみごとな造語で表現した。詩人の名は余り知られていないが、この言葉だけは広く人口に膾炙している。言葉が独り歩きする世界。吉田一穂にとって、「詩」は常にそのようなものとして運命付けられていた。自らソクラテスの直系と名乗る、この覚悟の人にとって、詩作は産みの苦しみでもある。けれども、詩が固い沈黙の殻を破り捨てる瞬間、思考のロマンチシズムは曰く言い難い麗姿に輝く。それは同時に、苦行の凄まじさを物語る現場の痕跡ともなった。なにはともあれ、新鮮な古語と言う逆説が素晴らしい。
あゝ麗はしい距離(ディスタンス)
常に遠のいてゆく風景・・・・・
悲しみの彼方、母への
捜り打つ夜半の最弱音(ピアニシモ)
その格調の高さによって、つとに知られた名詩「母」は、吉田一穂の代表作であり、意識の天体のトライアングルパワーが遺憾なく発揮された詩作の好例である。魂に骨格を与えることで、その表現に力強さと存在感が加わる。概ねが三行の構文により無駄なく凝縮された作品群である。その詩的宇宙は無限の広がりを感じさせ、神の指が触れる創生現場を目の当たりにするかのようだ。わけても、この作中人物−生まれ故郷、北海道の厳しい風土で働く野良着姿の母は、マドンナとして詩的に聖化されながら、些かも現実味を失ってはいない。寧ろ、より真実性を持って、私たちの心をうつ。彼の作品世界にはノスタルジーの原風景があるのだ。
|