波乱万丈の半生に見切りをつけ出家得度した大石寺僧坊の碩学、のちに、反創価学会グループの「正信会」に所属、理論的支柱となるが、元々が学者肌だから底の浅い論争自体に嫌気がさし、正統宗門の血脈観と成仏の本義を独自に打ち立てるために脱会。しかし、通俗的見解に馴染まぬラジカルな論旨はしばしば曲解され、特に、三世座主と全信徒の師弟関係による御本尊拝観、所謂「自余の大衆と目尊・分半座」の仮説は「日目本仏論」等と揶揄される。破門の末、山谷成道を強いられた著者の不惜身命の闘いの記録が本書である。
著者の依拠する<相伝書>は門外不出、いわば秘伝中の秘伝、決してわかりやすいものではない。まして一次資料を欠いたまま真偽未決である。だからこそ、逆証明のために、このX資料を代入して興門流・即身成仏の方程式を解こうとしたのであろう。と言って何の保証もない苦肉の策であることに変りはない。前提が間違っているかも知れないのに、あえて<二個相承>と<日興跡条々事>を法門解釈の必要充分条件としたところに価値がある。何はともあれ、記号元年とでも称すべき血脈の発生現場では、自家薬籠中のパスワードが予め暗号化され、全ての言語操作は完了しているかも知れない。御本尊にしろ、その周辺事態にしろ、凡夫の身であれば見たとおりの体裁でしかないから、仏法の体系に通じ問題の核心に触れるまでは途轍もないパワーを必要とするだろう。
この気の遠くなるような作業に直面し、脱・集団主義で背水の陣を敷き、精妙なバランス感覚で宗門に一定のスタンスを保ちながら、思想的深化を遂げた人の壮絶なドラマは、かの大乗の大成者である龍樹・世親に比肩する。ちなみに本書はのちの集大成を約してか、サブタイトルに「大石寺法門研究序説」とある。
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