「この眠りの果実を」に続く第2作、表題は旧約聖書・エレミアの哀歌「女よ、おまえの破れは海のように大きい」から抜粋引用されたもの。宗教的な信条を詩のレベルで表現することは至難の業だが、著者は臆することなく、現実に直面する問題を直裁に歌い上げる。
まず母として母子愛に、次に女の性に目覚め、子供、夫、性にかかわる様々な葛藤を通して、聖書的理念ではなく、信仰の生地を日常の体験を通して洗い浚い浮き彫りにしょうとしている。太陽であり、霧であり、波であり、私自身であるもの。およそ、被造物としての宿命を免れるものなど在り得ず、全く同様の理由で、神の手で引き寄せられないものもない。悪魔の膝の上で欲望を飼い肥らせるだけの結果主義、目的に相応しい唯一の存在形式である祈り。これら、上昇と下降の鬩ぎ合いの中で、引き裂かれた魂は、苦悩という、愛の最大公約数によって、他者との交流を深める。
自意識の闇に光を呼び込まんが為の装置である言語空間。世界は明るく暗い。厳しいが、時には温かくもある。詩人は原初の混沌に船出して、底なしの夜に信仰の錨を投下することで、限りなく自己に似た日常を他者と共有し合わなければならない。或いは、それとは反対のベクトルで、他者との関わりに背を向けて自己を見出さなければならない。
このような生の倫理は言葉の音楽となって、ゴスペルのように詩人の全身全霊を掻き立てずにはいない。聖家族の営みは、最後の晩餐の雛形のように繰り返される。これは私の血、これは私の肉、と。この詩集は全体を二部で構成され、パートTは子供の育児に、パートUは夫との性の営みに、スポットがあてられている。意志と感受性のぎりぎりの在り様を開示して、なにが神の恩寵に相応しいのかを模索している。
天使の死の刺に触れられて
眠っていたものは時のなかへ目を
さました
無辺のなかに耳を開いていた丘も
茂みも
樹の葉も石も流れのなかの魚も
遠い野の馬も
急にくろい影を地に印した
「月夜」
彼女の創世記はこんな風に始まり、それは「抱擁」という愛の儀式によって最高のたかまりを見せる。
かたくしまっている肉を おしひらいて
夜明けは あふれ入ってきた
あの人は非常に優しく
この上なく残酷にわたしをいそがせた
それでいつも あの人は
精霊のように軽くなって
抱擁の途中でみえなくなるのだった
わたしは石の酒槽(さかぶね)の中で
ふみくだかれる葡萄の山
背を光らせてうねりながら
橋の脚をぬらす真夜の波
セロの流れの中ですれあう無数の金剛
石・・・
ついにわななく光の弧であった
これは、あまりにも美しすぎる情景ではないだろうか。この躊躇いのなさゆえに、この行為の剰余として、赤子はシーツに包まれたまま、眠っていなければならない。行為そのものを無化するのが神だとしても。
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