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日付:

2006/06/11

タイトル:
安らかな死のための宣言
著者:

R.ジャカール+M.テヴォス (菊池昌実 訳)

出版社:

新評論

書評:
 

  「完全な死」が「生命の完成」でもあるニルヴァーナ。その生成のドラマは菩提心から始まる。良い行いの全てが蓄積された菩薩界、ここで仏教徒達は身の証を立なければならない。教主・釈尊は天寿百歳に満たぬ八十歳で没した。無論このことで、「生命の完成」が些かも損なわれたわけではない。「完全な死」に仕組まれた「自行化他」の働きが、父母の贖罪となって顕れたのだから。衆生病む、ゆえに菩薩病む。−この菩薩行と言う最高の存在形式は模範解答を得たことになる。生死一体の破れ目から、もし鮮血が迸らないとしたら、生ける屍であろう。

 本書は「安楽死」に就いてのマニアックなリポート。しかも、「安らかな死」のマニフェストでもある。その心中は穏やかではあるまい。当然、政治的な蟠りが爆発する。そもそも在野の分際で、権力に成変り、奴隷(=著者は民衆の力を隷属への信仰と定義している)に一鞭くれようと言うのだ。その毒性たるや凄まじい。ところで、この開放の鞭、自由と権利の最後の砦!制度改革の最前線!等と、空騒ぎに弾みがつくばかり。−リベラリストべったりの新・人権宣言となった。それはまあ兎も角としても、自殺に就いての拡大解釈、少々、度が過ぎはしまいか。確かに杖によろめきながらアケロンを渡る人影は年々増える一方ではある。 
 
 「自殺」も「堕胎」と同等のレベルで法制化すべし。この法案が妥当とされるのも、カトリックの公式的見解がぐらつきつつある昨今、先進諸国では時間の問題らしい。日進月歩の延命医術で、人口過剰も、そろそろ深刻な山場を迎えた。そんな危機感が背景にあるとしても、以下に述べる素朴な疑問によって、なんとも腑に落ちない話だ。

 本書は「遺書」として書かれたものなのか、それとも、バリ島に隠棲するためのものなのかどうか、と言うこと。三本の瓶を使った「自殺装置」にぞっこんの著者の、なんとも落ち着きの悪い理論武装だが、まずもって、動機の程がわからない。−まさかカルトの抜け駆け教祖ではあるまい。それともう一つ、もし講釈にある通り、自殺願望が情緒欠陥に起因するなら、本書そのものが偏見の所産となりはしないか、と言うこと。用意周到で幾分でたらめな分析もこの二点に集約されるだろう。論旨云々ではなく、要は品性の問題である。

 本書の誤りは明らかだ。安楽死と自殺を同一に論じたこと。安楽死は社会的なテーマだが、自殺はあくまでも個人の問題である。この自殺に纏わるラジカルな反権力思想も安楽死の問題に持ち込まれるやいなや暴論となる。ジャーナリストのレトリックとして頂けないばかりか、この論点摩り替えは、危険思想が陥りがちな悪癖でもあった。

 ランボーは死の床で、妹のイザベルに、もう私の脚を医者に触らせないで呉れ、と懇願したと言う。神との掛け合いは、ぎりぎりのところで、沈黙が支配する。傍でゴタクを並べても仕方があるまい。死はその目的によって神聖なのだから、眼の先判断は差し控えたい。誰もが「完全な死」を望む。その為にも生をとことん見極めるべきなのだ。愚にも付かぬ言掛りで、墓穴を掘られ、宙吊り状態にされたんでは適わない。

 リルケは人里離れた館で、薔薇の棘に傷ついて死んだ。ひとはどんな場合も自分の生き方に相応しいカードを選ぶ。だから肩の力を抜きさえすればいいのだ。ノウハウは要らない。感電死も毒物も、競ってアケロンの水に洗われろ!


 

 

 


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