「鰊が空に浮かんだような顔」とはよくいったものだが、「てめえ一体何の花が好きだい?」と絡らまれ、「・・桃の花。」と応えた太宰治に、「だから、駄目だっつーの!」とダブル・パンチを喰らわせたのは腕白・中也だが、この酒場でのエピソードがなんとも可笑しいのは、この二人が不条理に操られたマリオネットのようだからだ。多分、何かの文学賞の詮議でもしていたのだろう。−詩人は女々しい。明治の志は地に落ちて、大正以来、文士と言えば肺病やみと相場が決まっていた。落ちこぼれの勲章談義に花は咲かない。
だが、昭和の母は強しである。彼女の詩集一冊を携えて、内蒙古に飛んだボランティアの青年を讃えて、「簡潔だが情感のこもったいい手紙を貰った」と喜んでいる。はるかな草原から舞い込ん手紙が、丹念に「詩」で折られた紙飛行機でもあるかのように。戦後を迎えた母子家庭も、この母なら大丈夫。未来は実にさばさばとして明るい。
激動の時代を生きぬいた母と、汚れを知らぬ世代。しっかり手を取り合って人生に体当たりする。我国が取り戻さなければならないのはそんな気概溢れる家族だ。
この八冊目の詩集が人生の結句としての「倚りかからず」というのだから、既成事実も信ずるに足る。彼女の「苦しみの日々 哀しみの日々」はこんな風に回想される。
苦しみに負けて
哀しみにひしがれて
とげとげのサボテンと化してしまうのは
ごめんである
受けとめるしかない
折々の小さな棘や 病でさえも
はしゃぎや 浮かれのなかには
自己省察の要素は皆無なのだから
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