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日付:

2013/02/19

タイトル:
吉本隆明という「共同幻想」
著者:

呉智英

出版社:

筑摩書房

書評:

 

 本文ではタイトルがさらに敷衍されて「共同幻想という知識人の病い」となる。如何にせん、雑文家は雑文家である。まとまった発言を期待しても所詮は無駄ごとであろう。吉本隆明と言えば、小林秀雄と共に、戦中・戦後に渉り思想の混迷時代を独特の理論武装で壮絶なバトルを繰り返し夫々に勇名を馳せた巨匠である。著者も回想するように、戦後生まれの文学仲間に恐持てのペダンティストならではの猿山のボス的存在だが、確かに青臭いスノッブ達にとってマウンティングの恰好の偶像でもあった。本書は怪物退治のマニュアルの感あるも志半ばと言うところだろうか。見慣れた日常の風景を一変させる雪化粧が、明日にはもとの姿に戻るように、どうやら結果は有名病の臨床治療の真似事どまり、知名度のある観光名所に似て伝説のベールはそう容易くは剥がれない。虎穴に入らずんば虎子を得ずだが、身の程知らずと一笑に付されても仕方があるまい。両者に共通する江戸っ子気質に言及すれば、前人未到の<粋>の海域に漂い出る筈である。マラルメはこの思考の極北での発見を称して船のない難破と言った。わからないものはわからないままにとはランボーの持ち前の言い草である。チマチマと綺麗ごとに執心すれば女にはもてるかもしれないが、悪文が身に着かなければ文学のディスクールは大成しない。何故悪文なのかは、悪文のスタイルそれ自身が語っている。当たり前だが、それを感じ読み取る者だけがファンになる。クイズや智慧の輪を解くのとはわけが違うのだ。わかりきったことを証明しあっては悦に入っているお前らの嘘寒い顔に小便をかけてやる。そう言って、サロンの椅子を蹴り倒し、テーブルに足をかけたランボーはヴェルレーヌを慌てさせた。

 とは言え、正直のところ吉本隆明は骨相学的に馴染めない。幼い頃から異常と思われるほどの人見知りで、表情観察にも長けていた私は、困った時の神頼みと言えば骨相学であった。ゴーガンの知性が本物とわかり、ゴッホに本能的な気品を感じ取るのも、二人が天才顔だからである。晩年の小林秀雄と三島由紀夫の対談をみるがいい、大人と子供ほどの背丈の違いは歴然としている。問題は言葉自体に思考の年輪が刻まれているかいないかだ。難解でなければ伝わらない世界がこの世に光を当て、言葉の創化力が事物の輪郭を際立たせる。吉本隆明にとってマタイ伝はマチウ書でなければならず、小林秀雄にとってアキレスはアシルでなければならなかった。ゆきすぎや不手際は承知の上の異界参入儀式の合言葉である。そんなところで幾ら詮索を重ねても、単なる言い掛りに過ぎず、彼らの物語は始まりも終わりもしない。青空を捨て雄渾な大地の文法を抱きしめるために泥まみれになってのた打ち回った、そういう不器用な天使たちの袖を引いても永遠に振り返ることはないだろう。本書がモットーとする明証性に就いては些かも否定する積りはないが、寧ろ今日ほど明証性が望まれている時代はないと思えばこそ、敢て断言する。喜劇は悉く理に落ちるものだが、悲劇が散文になった例はないことを小賢しい論客の多くが知るべきである、と。歴史に刻まれた時代の顔は遠望するに如かず、文化的パースペクティヴの消失点に向けて平板化されるだけで、再度生きることは至難の技である。徒然草は額縁の中の絵のように鑑賞するほかはない。それが言葉の正しい意味での今日性というものである。声を大にして私は言う、小林秀雄は偉大であった。私は半世紀以上も前から現在に至るまで、未だに額縁探しに奔走中である。





 

 

 


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