スイッチひとつでバーチャルな世界が堪能できる。と言うか、私たち生身の体験自体がオフ・ラインなのだそうだ。そんなメカニズムには慣れっこなので、電波によるメディアの在り方に誰ひとり疑いを抱いてはいない。映像文化もろとも溺死寸前という締まりのなさ、しかし、良くも悪くも、昔ながらの物書きの手がそれによって休まることはなかった。
私たちを呑み込むフィクションがあり、等身大のモデルが私たちの日常に重なる。読者はページを繰ることで作者と肩を並べて歩いたり立ち止まったりする。こうして森の中の空気を吸うように読書体験が成り立つ。
生活の場とは地続きだから、いつでも何処でも、私たちを生身のままパッキングしてしまう小説。テレビやパソコンの編集画像は、所詮、額縁の絵でしかない。と言うよりは、私たちが独房の囚人なのかも。クリア&ワイド作戦で茶の間を占拠するテクノロジー、それはそれで仕方のないことだが、そろそろ次世代意識に「疑似体験」離れがあってもよさそうなの気もする。
通俗小説、結構ではないか。流行作家のペンが掻き立てるさわやかな風に吹かれてホームに立つ。満員電車も苦にならない。五月の森の木漏れ日に浮かぶオンディーヌ。水面を掻き乱すまいと息を殺して妖精の顔を覗き込む。そうやって空想を逞しくすること一時間余り、満月を背にした帰宅も悪くはない。
東野圭吾は誠実な作家だ。「容疑者Xの献身」は重箱の隅を箸の先で突き回すような自分探しの本でもある。思いつく限りの夢が実像と寸分の狂いもないことを確認する地点=X。偶発的な事件が契機となって容赦なく繰り返される定点志向。絶対の要請が良しとした座標軸には、手を伸ばせば誰でも掴むことの出来る葡萄の房がなければならない。しかし、その動機も破綻もひっくるめて始めて誠実さと呼べるなら、完全犯罪が人間性に組することはありえない。そのぎりぎりの地点=Xまでは作者自身、作中人物と同様、容疑者であることを免れない。
実験小説的な面白さもある今様ピカレスク・ロマンとして中々の出来である。
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