ケネディ
が凶弾に倒れたのは、キューバ危機が去って暫くしてからだが、真相はまだ明らかではない。今なら、ブッシュや金正日のように難を避けられたかもしれない。ところで、この問題を個人の資質に置き換えて捉え直したらどうなるだろう。意外な、と言うよりは寧ろ当然な局面が浮かび上がりそうだ。かって、アテネの会堂で熱弁を奮うソクラテス
もそうだったが、あの日、押さえ込む天の手を払いのけて歴史の主人公は現場に臨んだ。ケネディ夫人の予感は的中した。
悪法も法の裡、この名言は運命を主体的に選び摂った者の峻厳な事実と重なり合う。選択された生を運命とは呼ばない。使命感と言うべきだろう。押しなべて殉教者にはこの使命感があった。ケネディもその例外ではない。よくある英雄待望論はどんな風にも乗ろうとするが、大物は機会を最大限に活用して現れる。(ーユダヤ・ロビーがどんなものかはさて擱き。)
しかし、使命感が伴わないとしたら、気宇壮大な道化で終わってしまうだろう。そして、この使命感のないところ必ずモラル・ハザードがある。立場の違いを超えて各々が銘記すべき問題である。ケネディを最後の英雄等と言う積りはない。唯、歴史は恒に偉大な個人の所産であって、万人の声は魂を奪われたバラバ!の叫びでしかなかった。
ロン・ヤスの掛け合いに気を抜かれた連中は賭博場の煙に消えた。が、ジャメリカン・小泉の気に障るニヤニヤ笑いはまだ続いている。
そんな一連の不愉快なことにまで想いを馳せてしまう本書だが、暴露本に特有のおどろおどろしいタイトルのわりに、中身の記述は醒めていて好感が持てるし、俄か論議に終わらないベーシックな方法論も成程なと感心させられる。データーの蓄積も確かなようだ。しかし、地球のゆくえが袖の下で決まるとなると、この類のメッセージ、雲の上しか届け先がなさそうだ。
ケネディは二度死ぬ。最初は真昼の炎天下で、二度目は印刷機に掛けられて地下室から現れ、スーパーのレジのケタタマシイ音に掻き消されて。
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