「夢の裂け目」とは、他ならぬこの現実のことである。詩人は手を変え品を変え、想像の及ぶ限り夢を支えようとする。冒頭の表題詩ほか23篇の作品は、いまも長く尾を引くそれら残夢であろう。最終詩篇「創世記」が、新たな夢の始まりなのか、この世界を良しとする現実的な態度なのかは定かではない。
象徴派から現代詩まで一家言を持ち、ラマルティーヌの名訳でも知られる仏文学者、窪田般彌氏の第三詩集。文中、到るところに散見する、日本版ボンフランセとも言うべき幻妙洒脱ぶりはどうであろう。ときに古代の詩賢に訪ね、王朝風雅びに遊び、玲瓏と詩歌の珠を連ねる。古今東西の文芸に通暁した一級のパロディストならではのわざである。
ディレッタンティズムを詩の本領とした日夏耿之介なきあと、詩は野に降り、負け犬の遠吠えとなった感がある。余りにも朔太郎的・中也的ではなかったか。
恐らく今後も氏は教養派を任ずるだろうから、これら文学的無産者たちとは無縁のひとの眼に、悲しいかな、現代詩の多くは、
空席をみたす石のように!
おぞましいものと映るだろう。
では、衒学的で気難しい詩ばかりか、と思うと決してそんなことはない。乾いた抒情の弦に触れて北風もやわらぐ、さわやかな音色も聴こえてくる。
彫りのふかい空をひらく
はるかなあおの
はるかな船路
溺死した四等水夫の影が
影をすててゆく
むれ集まる島々のあいだを
朝焼けのジプシーのように
首まで水びたしの雲の洞窟
ぽっかりと入口ばかりが大きい
死んだ波が波にのって
戻れない遠すぎる海をさがしている
「天の浮遊物」
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