ランボーは生来の途轍もない反抗心を持て余し「俺は自分の無邪気さに泣き出したくなる」とぼやいた程であった。この否定的な矜持、本書の表題にぴったりのフレーズなのだが、<阿賀猥>の奇妙な作者名では折角の相性もぶち壊しである。仮にア・ガ・ワ・イのアナグラム=「わが愛」が煩悩即菩提の謎解きの表意文字であったとしてもイメージが良くない。どう考えても男性名としか思えないペンネームの癖に、詩集の本文の語り手は女である。どちらにせよこの著者には、元々<女でなければ男、男でなければ女>くらいの、即ち丁か半かの性の認識しかないのではないか。しかも加齢についての驚くべき偏見は、老化現象の物塊性をブツ(仏の意か?)と一旦は唾棄しておきながら、200歳寿命説や再生神話を信じ、臨終の際には法律違反(土葬)すら辞さない覚悟の破廉恥極まりない現実主義者でもある。至る所に散見する二律背反のドタバタ悲喜劇は「地獄の季節」の天才詩人を十分意識した上での演出と思われるが、残念ながら客観性にいまひとつ欠けるきらいがあり、当然ながら風刺になりきらない。
バーチャルな宇宙体験を通して、遠目に感じる地球は今や誰の眼にも青い。だが、如何に深遠な思想といえども肉体の化け物に過ぎず、大方が<美>に目隠しをされた状態で生きている。恐らくそんな持ち前の信条に従う限り<右翼・馬鹿・石>の三位一体の情けなさが彼女の止まり木であることだろう。
「放蕩なくして何の人生であろう」−この朔太郎的人生観が彼女の人に差し出す名刺だが、それも、蠅のように天空に湧き立つ天使たち、そんな荘厳な無意味にうんざりしておればこその話である。「深き処より主よ、俺は阿呆だ」−ランボーの自我の言説と彼女の感じる<馬鹿のフカミ>とは同列に論じられないかもしれないが、実は意外なところで相似性を持つ。この詩集一巻の値打ちが、健常者とは何なのかを問うことにあるとすれば既にお解かり頂けたことだろう。やや表現の足りないランボーとして、正確さを旨とすればニヒルな認識に一層近づく。まして手の込んだ術中に嵌められたとなれば、逆にこれ程うれしいことはない。彼女はまさに天下一品の美女でもあろうから。
「豆」における物語作者の話法もさることながら、「ジャッカンシモゴエ」のエピソードで例話を完成させる技術的な強かさ、「ズビニコウチュウ」のユーモラスな構成力、「あとがき」の哲学的・自虐的な臆面のなさ、これら諸詩篇の古代の巫女の冗談の鏡に仕込まれた来歴の面白さはどうであろう。阿賀猥でも一向に差し支えないのかも知れない。
緑のニラの葉
ニラの葉は少しそよぐ
ミミズとカマキリと年寄り
ミミズとカマキリと年寄りはじっとしている
一人、豆蔵が、畑で鍬を振り豆をこさえる
獲れた豆を塩豆にしてビンに詰め、晩飯の
後に食う
(中略)
豆のビンを持たないミミズとカマキリと年寄り
が、騒ぐのが豆蔵には聞こえる
(中略)
明神山の麓の豆蔵の畑
(中略)
風が吹くと畑の豆が、まだ塩豆になる前の
鞘の中の豆が、
二マー、と笑う
(中略)
むっくりと肥える
「豆」
見事と言うほかない性神讃歌ではなかろうか。
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