久しぶりに西脇さんを堪能した。実人生をはぐらかす文意達観の独壇場では喋る事柄はみんな詩になってしまう。詩の羽を生やした文体は絶妙なタッチで「てにをは」を忘れさせ、魅力的な悪文はピカソの絵のようだ。文法如きは猪を追う女神の通った足跡と思えばよい。古の歌は木漏れ日がちらつく奥の細道から太陽の野原に燦燦と輝き出る。詩が詩を誘う麗しいディレッタンティズム。或る編集人をしてこう嘆息せしめた。−この本は深い渇きを癒してくれるエッセンスのCarafe(水差し)である、と。
文中、悪文讃歌がこれでもかと繰り出されるが、一々が当を得たもので凄みすら覚える。「新古今」は、貴人が手懐けたお行儀の良い散文ばかりで面白くないと、全面否定、土の精がパワー全開したのが万葉言語である、と独特の美学を展開。何しろオフェリアから芭蕉まで、洋の東西を問わず創造的破壊の鍬がどしどしと入れられるのだ。
こんなにまで奥深い文学雑考が、夜が白むまで続くのだから、昭和と言う圧倒的な年号を通過した雲のスケールがどれ程のモノデアッタカは、未だに「群盲、象を撫でる」の類でしかないだろう。生誕百年にあたるこの追悼記念出版、文献学上も貴重な一冊となって残るに違いない。
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