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44/100

文は人なり。文体はこころの姿勢であり、書体は態度の表明である。

文意悟達を心がけ机上の人となるのは人格の完成のためである。読書し沈思黙考を怠らず書を極めることで人格は完成する。「一日千里」を座右の銘として軟弱で少々曲がったところのある己を鍛えなおす。

 

43/100

蛇にさえ塒が与えられたのだ。

大地が物惜しみをする筈はない。

私怨も根深ければ大輪の花を咲かせるだろう。

 

42/100

酔いは深い目覚めである。

 

 41/100

セクシャリティは美を方向づける。エロスは美を新しくする。

 

 40/100

優しさがなければ罪の意識は存在しない。悪は優しさの投げる影である。

 39/100

 藝術とは聖なるものの記憶である。

 

  38/100

 一言が五月蠅いひとがいる。その人の沈黙はもっと悪い。喋り続け  なのだ。ご退場願うしかあるまい。

 一人でも賑やかなひとがいる。彼は独房の住人である。

  37/100

 死とは生体反応の一側面である。まだこちら側にいる。

 死を突き破ることで見えてくるものは?

 新しい生命ではないだろうか。

  36/100

 私たちが考える死とはまだ生きている状態のことで、もしかしたら死後 の世界は意外と明るいのかもしれない。

 35/100

 案山子では

 喧嘩にならない

 塾帰り 

 34/100

 毛虱や

 戦争の火を慕い

 33/100

  よく見れば

 貝に舌あり潮干狩り

 

  32/100

 身も心も蕩けちまっては

 言葉も糸瓜もない。

 これがランボー学校の卒業式である。

 

 31/100

 民主主義社会の学校教育は周回遅れの生徒に鼻一つ先を譲り、肩を叩くことである。しかし、どうやって先頭陣の背中を見ずにゴールで万歳するのか、誰も教えようとはしない。痺れを切らしてリタイアしたのは終着点に張られたテープの方である。

 師に劣る弟子は哀れ、と戦前の教科書にある。

 

  30/100

 −あなた

 もてるのは一向に構いません

 でもね、のべつ幕なしというのでは困る。

 29/100

  隣のひとと考えよう

 何故天国はあんなに遠いのかを。

 28/100

 長雨を

 悔いあらたむるや

 雷門

 27/100

 ひとに飽きひとに疲れて阿久川の

 堤を染めて散る桜哉

 26/100

 本当のことを言い残して

 死んだひとが一体何人いただろうか

  ( ・・・・・・・・ )

 寧ろそのほうがいい、

 大昔から天国ほど手狭なところはない。

   

  25/100

 人生の暮れ方の風景の中で

 私は孤独のキャンバスに内心のドラマを

 描き続けていた。

 

     24/100

 強盗は拳銃と札束とマスク

 銀行員は鍵と札束と金庫

 何んと物騒なことだろう

 何んと不経済なことだろう

 札束がなければ拳銃も鍵も

 金庫もマスクも要らない。

   23/100

 強盗は刃物を使うが

 偽善者は指一本動かさずに

 人を殺すことが出来る

   22/100

 叛かれて抗いつつも父母の

 禊の庭に散る桜花 

 

  或る事件が原因となって、本来のもののしくみが歪められ、ばらばらにされた夫々の断片が特化された場合、もう一度、それらを結び合わせて再構成する法統一的な問題解決の試み。時間を思考の束として手繰り寄せる。その時、未来は限りない過去形である。そして何よりも肝要なことは、未来がつくられるものであるということ。正しい認識は優れた人格の証明である。

                    2009/4/19

  殆ど同時に発売された千葉隆・著「池田大作の事」と矢野絢也の手記「黒い手帖」を交互に読み比べている。物事には裏表があり、ことの良し悪しは物の見方に過ぎないが、両者の立ち位置と言説(前者は代弁だが)によって客観的評価が二分されることにはならない。評価は一つ、朝の影は夕べとは反対の方向を指す。創価学会の明暗を分けた両雄のどちらに軍配が上がるか、と言う次元の問題ではなさそうである。即ち、すべては創価学会とは何かという問題にのみ帰着する。                        

                     2009/4/14

 

 21/100

 あの世とはこの世のことであり

 あなたとは私のことである。

 一念三千・境地冥合の世界観から

 仏知見が開ける。

 実感はないが。

 

  20/100

 地獄も一定棲みかぞかし

 地獄を知らないからこそこんな風に凄めるわけで

 いわば不信心の表明のようなものだ

 親鸞は危ない。

  

 19/100

 阿久川の桜母堂に似たるかな

 泪顔なる我が頬にふる。

 

 18/100

 死は挫折であって、まだ続きがあるように思われてならない。

 この世は光と闇が交錯する世界だが、

 あの世では光か闇のどちらかになるだろう。

 

 17/100

 痛ましい愛の破片だ、

 お前の言葉一つ一つが。 

 

  16/100 

 ひとは生きることに意味がある。

 と言うよりも、生きることで意味づけする。

 その方法の違いはあるだろう。

 彫塑的な生き方もあれば

 彫刻的な生き方もある。

 素材と道具と眼力が火花を散らす。

 手応えを求めて・・・。

 

   15/100

 生きる意味を考えたらひとは生きられない。

 神は目隠しをして背中に鞭をあてた。

  14/100

 生きている意味は死んでみないとわからない。

             フランツ・カフカ

  13/100

 死の壁の向こう側もこちら側の問題でしかない。

 生も死も生きている人間同士の問題である。

   12/100

 選ばれた魂は時代の夜を共有する。

 ぴんと張られた二本の弦はヨブの叫びをあげる。

 沈黙の深みに掘り起こされた泉と

 カーテンの蔭に隠れる星

 食卓にフォークと皿が残る。

 

  11/100

 正直者はただのらくらと蟾蜍のように生きるだろう。 

 脳の仕組みそのままに・・・。

 生活とは外科手術のようなものだ。

  10/100

 人は或る一定の年齢に達すると

 それまで背後に感じていた死に追い越され

 正面から向かい合うことになる。

 その小さな死は否応もなく周囲を巻き込むことから

 生きるにもまして取り組むのに骨の折れる

 事業への投資だとわかる。

   9/100

 世に知られた不名誉が本人にとって致命傷となるのは

 家族の存在によってである。

 人類の歴史は兄弟殺しに始まった。

   8/100

 未来とは反省の力である。

   7/100

 他人の墓を掘る者は自分も穴に落ちる

 先祖の光の届かない暗闇に

 一匹の蝮が放たれた。

   6/100

 悪党は刃物を使うが、偽善者は指一本動かさずに

 人を殺めることができる。

 悪党に肩入れして 屡、上手い汁を吸うのも

 そんな手合いである。

 物騒な宛て馬に気を取られるな。

    5/100

 愛は多くを誤る。だが、真実は愛を含む。

 表現されたものは許容されたものである。

  ひとは愛することから多くを学ぶ。

 蔑むひとはまだ愛の奥深さを知らない。

     4/100

 古代の人柱とスケープゴート。 

     3/100 

 生きたらええのや。

 なんぼう辛かろうと生きなはれ。

 死んだらあかん。

 生きよう思わんかて

 生まれたやさかい

 死のうと死んでなるものか

 生死の船をただ漕ぎなはれ

 やめたらあかん。

     2/100

 混沌から秩序へ、女から男へ、進化する宇宙。

 それが法華経の世界観である。

     1/100

 真実は重すぎて全部は秤に乗せきれない。

 計量化されたものが世間と呼ばれる。

 

        ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 現在はシンパシーの総体、未来は反省の力だ。悪人は過去を忘却の壷に入れて蓋をする。あの世で思い出すために? 

 

 強者とは自分が弱者になったら誰よりも落ち込む筈の弱者のことである。そんな弱さに居直ることで強者となった。そういう次第で、強者とは最大の弱者である。忘却が彼の力である。

 

 自助努力に就いてはスマイルズの有名な論説がある。労働の対価が社会システムにより保障されていた古き良き時代の話だ。今ではこの説は通用しそうもない。自己責任が責任転嫁の別名で、しかも官製用語なのだから。バブルが弾けた途端、こいつはあっという間に、もっともらしい顔をして市民権を得た。ところで自己責任を果たしたところで何の解決にもならない。というのも公私混同にも拘らず過失割合が応分ではないのだし、公務の無謬性により、無過失責任主義の原則から一歩も踏み出せない。過失は私人の側にある。従って「私」は人身御供として祭り上げられるのが関の山であろう。 

 

 世の中のことなどどうでもよかった。

 それでも身についたことは

 誰よりもうまくこなした

 見掛けによらず垢抜けのした奴だった。 

 

 善につけ悪につけ法華経を捨つるは地獄の業なるべし  

          (法華経=生命)

 

  金銭上のトラブルを死が解決すると思うのは誤りだ。問題の摩り替えがあったに過ぎず、必ずや負荷の皺寄せで、目に見えぬ怖さを抱え込むことになるだろう。忘却が事実を曲げることはない。

 

 クリスチャンが自殺すると天国にも地獄にも行けない。

 自殺は「反世界の魔」の仕業である。

 法華経の行者の肉体は「法の器」である。

 これを毀損したものは無間地獄に堕ちる。

 

  人は死を恐れるのではなく己の未完成を恐れる。

 

  期待に応えた者が、信頼に値するとは限らない。子の心親知らずの悲喜劇もこの点に起因する。

 

  選挙

 バラバ!

 これが大衆の声である。

 

  ジョーカー

 蛸が蛸壺にはいるように

 「自殺幇助」の罠にかかる間抜けはいない。

 暴かれた陰謀は朝露のように茨を輝かす。 

 

  言葉の兵器庫

 「グローバリズム」が一国覇権主義の大儀名分化と知ったときは

 既に核兵器並みの暴力の代名詞となって定着していた。

 だが「自己責任」こそもっともおぞましい官製用語であり

 弱者切捨てのための陰湿極まりない暴力の代名詞である。

 抑圧移譲型の擬装工作による恐るべき自爆装置だ。

 

   首吊り人

 自殺よりも自殺幇助の方が罪が重い。

 ユダはナショナリストとして基督を追放した。

 天国という在りもしない国へ。  

 

   自殺志願

 何故かって?

 死については何も語り得ないように

 生についても語れなくなってしまったからなのさ

 だからもう<命を大切に>なんてことは僕には言えない。

 だが命から学ぶものを最大限生かしてこその人生

 であることに変わりはない。

 教えることはないが学ぶことは沢山ある。

 人命尊重とは元々そういう意味なのだ。

   ・・・・・・・・・

  ひとは自分の中にあるものを通してしか他人の世界を読み取ることが出来ない。天才の種は偶然という優しい女神の掌中にある。

 

 この世の終わりにはひとは善悪の区別がつかなくなる。一体、最期の審判はどうなることやら。

 

 スポーツは低年齢化し、文学は高年齢化する。犯罪は年齢多層化する一方である。   

 

 異常の中の正常はシンドイ。異常になることで漸く放免される。

 

  ひとの道は既知へ、詩人は未知へ。不時着すれば沈黙か、さもなくば散文の世界である。

   ・・・・・・・

 

  贋者はキラキラと輝いている。

   ・・・・・・・

 日蓮宗の百日行にも陰湿ないじめがあるという。いわんやあれこれのオーディションにおいてをや。

   ・・・・・・・

 てふてふの生垣を超えて夏の海の

 月影淡き砂浜に消ゆ 

   ・・・・・・・

 罪を認めない者を

 許すことは出来ない

 許すことで愛は完成する。

 

 人を殺めても

 真実を葬ることは出来ないと思っていた

 ところが真実が先に葬られ

 人はその後を追う

 今や、そんな世の中なのだ。  

   ・・・・・・・ 

 本邦のアート・アカデミーは師弟不二の名門の出ばかりで、お受験組が仲間扱いされるのは至難の業だ。可愛がられるには「道化」の仮面を被らなければならない。プライドを棄てない限り身も心もボロボロになるだろう。

 

   雑魚の夏

 本家乗っ取りのための姑息な時間稼ぎ、頭隠して尻隠さずの児戯に等しい偽装工作とその背後関係。先祖が草葉の蔭で泣いていることだろう。ホリエモンの爪の垢でも飲ませてやりたい。 

 

   おめでとう

 生まれることは外れなしのガラポン籤のようなものなのか。

 誕生祝は何のため?

 得するとはどういうことか。

 

    勝利者

 誰にも負けないように

 自分自身に打ち克つこと。

 勝他の心で自分を損なうのではなく。

   

        スワンダフル・タルホ 

 

 地上とは思い出ならずや。(稲垣足穂)

 世界で一番美しい言葉であると私は思う。 

    ・・・・・・・・

  

       3つ数えろ

 1+2=3 1,2,3 そのどちらでもよい。

 3つ数えられたら世界は自立する。

 何故だろう?

 父母がいて私は私になった。 2+1,

 男女が結ばれて子どもが生まれた。 2+1,

 親友同志がお互いの友達を紹介し合った。

  2+1,+3,+4,・・・+n,

 2は開閉する。数はその都度弾かれる。

 2は運命の墓であり子宮でもある。

 3つ数えて哲学者マトンは自殺した。  

 

  生きることが、生き残ることでしかないという無念。忘れられた岸に打ち上げられて粉々になった船の破片。

 

 人生は短すぎる。だが二度生きるには長すぎる。  

  

 分厚い沈黙の壁。

 ツンボに耳栓、オシに猿轡。

 時間が皺よる。

 声は津波の高さだ。

 

 泥棒に花を持たせてはいけない。

 ナイフ片手に襲いかかるだろう。

 

 前川清の歌はいい。メタファーの爆弾に点火する時、ニヒルでテロルな気分は高まる。神戸・大阪・横浜・東京・イナカッペ・・・。 直立不動の日時計の針が一回り。なんとまあ、演歌の裾野の広いこと!あたしゃね、あんたを10年待ったよ。

 

 気違いが近づいたら席を外せばよい。だが、組織だったらどうしょう。刃物も振り回さずに椅子を奪われる。

 

       売り場

 

 ぶらさがって丸五年

 ワゴンを外せば首吊りの高さだ

 みょうちくりんな看板の下で

 ニナ・リッチもジョルダンも

 鼠の餌になる

 この〜てめえ〜この〜

 なんちゅうぷー太郎だべ

 飼い殺しの男の背中をたたき

 眠気覚ましにチャリン!

 これください

 のうのう爺ちゃんが

 キティの園児バッグを買ってゆく

 

  

   銀行員

 

 積み上げても崩して横に並べても

  みんな同じ顔ばかり・・・

 トランプ遊びも出来やしない

 

  ***

 花のような

 釘のような

 水の上を走る宝石のような

 目覚め。 

 悪は勇気の欠如であり、

 性格の弱さである。

 信仰の火に炙られ腐臭を放ち始める。

   ***

 悲しみは

 波に洗われ

 ピアノかな

 

 粉雪の

 散るキオスクで

 マルボーロ

 

 年の瀬を

 遠ざかりたる救急車  

 

  夕雲の遊びほうけてこの世かな

   ***

  石の如く

 未知の言葉を

 日に曝し

 

 船を漕ぎ

 沖にて被る

 雨の網

 

 夢にてあらん

 風にてあらん

 子らの路 

 

 中央線

 どの町並みも 

 目で降りて 

 

 女あり

 モンパルナスの

 屋根に月

 

 山桜

 右に左に

 帯を解き 

 

 おや市長

 と見れば田圃の

 案山子かな

 

 壁伝い

 煙のあとに

 遅い蠅 

 

 アパートの

 灯りを盗む

 終電車

 

 洋傘を

 五つ並べて

 雨上がり 

 

 蕩児あり

 祭りの後の

 通い道

 

 昨日今日影濃き山と迫るなり 

 

 廃船に手毬転がる夕日かな

 

 鴫鳴きて 

 海辺の友の帰らざる   

 

 爆撃に葉黄ばみたる

 冬木立 

 

  川上に銃声を聞いて

 散る紅葉

 

 荒涼と

 水底深く蕩児澄む

 

 遮られ

 納骨堂に

 雨宿り

 

 雲に雲かさねて

 急ぐ田舎道

 

  道草や

 売り場の鴉

 女学生  

 

 戸襖や

 葉群色めく薄明かり

  

  荒みはて

 虚空に座して聞く蟋蟀

 

 手を合わせ

 蟋蟀の澄む薄明かり

 

  ***

 

  光のでこぼこ道から

 帰ってくる人

 震える手足を縮かませて・・・

 崖に月が懸かる。

  ***

 

  追憶に

 錆びついた雲

 光の迷子と

 精霊の家

  ***

 

 生きることは生きている条件の中にある。

 ひとは罪の意識から罰を受ける。

 罪のある者、自分自身を最初に打て。

 この自己処罰は良心の働き。

 原罪とは他人の世界に生きることである

 とサルトルは言うが・・・。 

  

   ***

   

 美しい過ちが

 駱駝の瘤になる

 裂けた枝に

 追放の虹が懸かり

 未来が釘のように

 扉に錆びつく

 コルセットを外すと

 精霊の木が枯れて

 砂に積まれた

 貝殻の山が崩れる

   ***

 

  僕の手紙が

 夜の岸に着く

 風の掌で 

 満月が泳ぐ

 太鼓の響きに

 泡立つ春

 噴水の

 花が枯れる

    ***

 

 立ち止まる峠の雨の切れ目かな

 名月やしんと静まる竈かな

 侘びしさや風波絶えて松林 

 満月に墨流し込む風の道

    ***

  私にはあなたの中の天使が見えるのです。

             A・ランボー

 

 いちにちを

 罠の如くに悶えしは

 夢奪われて捨てられし日より

 寂しさは

 眠りの底に溜まりおり

 波打つ夢の枕にしあれば

 

 法技術はよくて水掛け論に終始する。多くの場合が強行裁決である。心情的・道義的な理解に基づかない限り、真の問題解決とならない。寧ろその点で母の判断は正しかった。しかし、母の願いを踏み躙り、父の遺命にそむいた者たちに、どうやって反省を促すのか?隠蔽と排除のための時間稼ぎ、居直りによるダメ押しの莫迦ばかしさ、そんなことにも気付かぬようでは、恐らく話し合いは無理であろう。

 

 おさのいて

 徒党組むらし荒磯に

 母の嘆きを知る人もなし

 

 旧知の人は言ったものである。

 法律は奪い合うところにしか存在しない。

 与え合うなんて所詮、無意味なんだよ。

 奪い返すとしたらどうだろう。

 私は些か動揺して尋ねた。

 その時は

 贈与分が問題になるかも知れない。

 要するに動機と証拠以外に

 争う理由が見つからない。

  どちらにせよ

 時間との気の遠くなるような闘いさ。

 全盲の魂に

 手を借りる馬鹿さ加減

 から早く眼を醒ますんだね。

 

  

 そむかれて

 父母(ぶも)を違えしはかりごと

 わが身ひとつに秋風ぞ吹く

 

 扉ひとつ隔てて虚し

 片側の空

 花に水やる姿なければ

 

  扉一つ隔てて他人と接する家族を

 家庭人とは言い難い。

 庭に出て花に水をやる姿がなければ

 人としてのイメージは浮かばない。

 

 窓のない部屋にてあらん

 無理強いの

 自縄自縛の闇深々と

 

 おまえの希望は窓のない部屋のように暗い。

 要求は犠牲を強いるが

 希望は理解を必要とする。

 

 これは自分の詩心を掻きたてる隠れ里に続く道であろうか。癖のある雅文調の語り口だが。

 

 星型の怒りの棚を外されて

 銀河も落ちよ

 海神のわれ

 

 銀河の橋桁が外され

 星型の怒りが爆発する。

 咽喉引き裂かれた海神だ、この私は。 

 

 < ゴルファーの心得>

 ドライバーは芸術であり、アイアンは技術であり、パターは神業である。プレー全体の流れの中に身を託し、直面する数々の障碍を乗り越えてこそ、プロゴルファーと言える。

 パターは愛着と年季である。お守りのようなものだ。

 

 希望は理解されなければならない。野望が犠牲を伴うようには自己実現しないのだから。

 人間に胃袋がある限り、正義など、絵に描いた餅である。

 

  断片こそ真実である。断片を繋ぎ合わせるとフィクションになる。完璧なフィクションが神である。

 詩こそわがわが領土、わが王国。

 詩−私という生涯の宝石

 すべてを自分の思い通りにするのが一番である。但し、そうすることが良い結果に繋がるか否かは、その人の力量による。自己責任に相応しい行動かどうかは本人評価で決まらない。

  バブル崩壊後は世の中の仕組み自体が変わってしまった。「協力関係」でなければ「敵対関係」である。従って「中立平和」の成立基盤も幻想と化す。即ち平成戦国時代の始まりである。

  機械や法律は非情だが、人間はそうではない。薄情、強情、無慈悲と言うべきだろう。何れも情的な反応であることに間違いはない。これこそ「偏差値」と呼ぶべきだろう。

 

 塵積もるその塵散らす

 一陣の風

 我が煩悩もかくやと願う

 

 塵も積もれば塵の山となる。一陣の風で忽ち舞い上がる。

 なにはともあれお受験か、やれやれ、バブルのガス抜きで、子どもの好きな道が掻き曇らなければよいが。大学大好きなんて子は聞いたことがないぞ!狂ってる!

   

   コラム(2007/08/14)

  お婆ちゃん元気?

 うっかり狸のシッポを出してしまった。自分のでさえ充分恥ずかしいのに。もう、この女狐ときたら間違いが何なのかまるでわかっていない。とっさの正体露見が馬鹿正直な影を引いている。白昼堂々と纏わり付くのは向こう見ずの証拠である。例えば、女が頚に巻く成人式用の純毛のマフラーとか。近所のオーロラ娘は開口一番、言ったものである。「お婆ちゃん、元気?」−「ああ、三年分元気だよ」勿体なさすぎる!胸中いかばかりであろうとも、こんなにもしっかりした母親である。しかし、なんともはや戴けない話だ。元気も糸瓜も抛っておけば伸びるだけ伸びるのだから。これではまるで、たった一人で砂漠で飢えを凌いでいたみたいじゃないか。傍若無人の馬鹿丸出し、という事実にもさっぱり気付いていなそうである。鬼子母神の施餓鬼はまるで火にガソリンを注ぐようなものだ。「お蔭様で」は出ずっぱりのバラエティ番組の影響なのか、死語になってしまった。

   

  死の谷を目連の夢

  涼やかに

  香撃つなれ母の掌 

 

      王の壁

   

  

  真実は生死を超える

  虚偽は生と交わり

  死後も纏わり付く

  目連尊者の母を見よ

  真実は無形の未来だ

  誰もが創造することも見ることも

  出来ない。

  真実は存在の王として君臨する

  その王の手の中でのみ

  <魂>に目方がかかる。

  その国に入るものは少ない

  魂は信仰の形だ

  王の嘆きの壁で

  自らを悔いる時

  火が水となり

  咽喉を潤すに至る。 

  

  

  

  太陽に顔背けしは何者ぞ

  盗人の手に持つ花は

  病める凶器か  

     

  泥棒に花を持たせてはならない

  いつか強盗になって

  襲いかかることだろう

  マーケットは顧客創造の場だが

  経済合理性はその結果である。

  影を踏んでも本体は

  振り向かない。

  太陽に顔をむけてから

  もう一度、影をみよ 

     

    

       或る家族

 

   父に背き

   母を貶めたものは

   荒野を彷徨う

   はかりごとに

   手を貸すものは

   災いなるかな

   財をなし

   驕り高ぶるものよ

   易きに流れ

   自らを害うことなかれ

 

            (アモス書 第9章)

 

    コラム(2007/08/04)

  平和の鍵 

 天罰はありうる。それ自身不完全な存在に過ぎない人間が神に就いて思いを馳せる。−これだけで、もう充分に天罰である、と言えないだろうか? 「罰が当たった、それ進軍」と、ランボーにあるが、罰が当たったから進軍するのではない。進軍することが既に罰当たりなのだ。ちなみに平和は進軍の結果ではない。もしそうだとすれば進軍の原因にもなってしまう。戦争のないことを平和と言うならば、未だかって私たち人類に平和と言うものはなかった。「絶対平和」はその事実を強調した言葉にほかならない。人類が普通に平和であるために、今後も、地上は相応しい条件を何も与えては呉れないだろう。この悲観的な観測により、結論はどうしてもこんな風にしかならない。−「希望」は天国の扉の鍵であり、地上にいる限り、しっかりと両手で握り締めていなければならない。この世では使い物にならないのだから。さりとて、錆びつかせるわけにもいかないだろう。結果を伴わないものに責任を持つのが信仰であってみれば、多くの結果主義者にとっては、これこそが致命的な盲点となるに違いないものだ。

   コラム(2007/08/03)

  二分の一主義

 幼児退行症には困ったものだ。二分の一主義がそれ。羊羹ならいざ知らず、寸法と目方が、外形と実質が、そう一致するものではない。老いた母親をどうやって秤に掛けるのか。裏と表を切り離すにはどうすればいいのだろう。総領と末っ子、店舗と売り上げ、建物付の土地を二等分するのだって、そう簡単にはいかない筈である。だが、上手い逃げ道が一つだけある。割り切れないものは存在してはならない。ゆえに存在するものは割り切れる。そのままでは矛盾撞着に過ぎない命題を交互に使い分けるのだ。これは詭弁論理とか強弁とか言われるおぞましい手段である。敵でなければ味方、理窟はあとから付いてくる。贔屓の引き倒しは確率の問題に過ぎない。要するに時間稼ぎが出来れば、それでよいことになる。彼らにとって、ご都合主義は正義とは違い現実的なのだ。<現実>とは隙間だらけの、実に無防備な要塞、早い話が馬鹿丸出しと言うわけ。恐るべし、「法律」は気違いに刃物となる場合だってある。そういう例を私は知っている。ことほど左様に現実とは取り返しの付かないものらしい。確かに、馬鹿は死ななければ直らない。

  

   港

  女の指がなぞる

 無の岸辺  

 マストが犇めく港に

 尖る雲

 熱い砂の上に

 鳥の羽が落ちる

  

  無題

 

 悲しい夕焼け

 炙り出された天女

 手押し車は燃えて

 積荷の山が崩れる  

 

  無題 

  

 ぷん と香り立つ

 檸檬の一滴

 天体の麗しさ

 かの岸に立つ清々しさ

 鏡張りの部屋に

 ランプが燃え尽きる

  

  無題

 

 蝸牛の心臓よ

 僕の少女よ

 花の回廊で

 鞭打たれ

 この惑星の水溜りの

 なんと寒いこと!

 

  壁の向こう側

 真実は生死の壁を越える。

 偽りの生なら死を選ぶ。

 真実だけが生きるに値する。

 マラルメは<腐臭を放つ皮膚の夜>と言い

 <豚の幸福>とも言った。

  

   自分だけ

  

 自分だけ不幸だと信じている人を見るのは悲しい。

 自分だけ幸せであれば良いという人の振舞いは醜い。

 自分は社会への応分の感謝としてあるのではないのか。

 耐えるところは耐え、許すところは許し、しかも

 正しいと判断したことは一歩も譲らない。

 正義は万人の宝であり、抜け駆けは罪悪である。

 真の反省には勇気が必要なのだ。

 人は謙虚な正しさを勇気と呼ぶ。

 だが、この<二重に仕組まれた罠>は

 内側の鍵だけでは外せない。

 泥棒に花を持たせるようなことをすべきではない。

 今度は強盗になって襲いかかることだろう。

 大切なことは死を前にして恐れを抱かぬことだが、

 生きることと死ぬことは別の問題である。

 と言うよりは、死ぬことは寧ろ生き方の問題である。

 周囲のバランス感覚に疎い人は我が身を損なう。

 アンバランスを慈悲の心で取り込む者も極く稀にだがある。

 維摩居士は言った。衆生病む、故に菩薩病む、と。

 割り込み乗車は危険である。

 

   なってないなら

 トップの判断は正しくなければならない。医療ミスだけ槍玉にあがる昨今だが、政治家も思想家も宗教家も教師も父も母も親方も社長も会長も<奴さん>も、全然、なってないなら、あの世から物差を当てねばなるまい。<怨霊>は存在する。天秤の読み方を学ばねばならぬ、めあき盲目も同然の人のために。

 

   T

 野に

 鈴持てる

 女

 北風

 が転がす

 レモン

   U

 触れると

 燃える

 虹の止まり木

 風の掌が

 帯を解く

 みえない川で

    V

 港に

 なつかしい虹が架かる

 親しい波よ

 微笑の罠を遁れよ

 

    W

 天体の麗しさ

 あなたという存在の正しさ

 この一度限りの舟の上で

 満月が義足を外す

    X

 月の明るい晩

 階段を駆け上ると

 時間が壁紙のように剥がれ落ちる

 その駅の名は

 忘れてしまった

 プラットホームには一面

 椿の花が散り敷いていた

   

    

   貝殻と海

 

 記譜法を忘れた海の

  ざわめきが閉じこもる貝殻

 月の光を浴びた

 小さな砦よ

 星の匂いを撒き散らしながら

 光の種が跳ぶ

 風の中の

 毀れたオルゴールよ

 みえない魚が泳ぐ 

 この天体の麗しさ

 触れると燃える虹の止まり木

 不眠に削られた

 記憶の岸辺に

  重い微笑の舟が着く  

 

 

 僕は人生を深く愛した。

 だが、今では冷たい星だ。

     パウル・クレー   

 

   

   苦杯の俳句

 

  

 アルカード血祭りの夜の鳥羽口で

 ギター弾く波北向きの港町

 パンジーとみせて胡蝶の離れたり

 花に水孫に縁なき老夫婦

 トランプの卓を挟んで西東

  

 風荒く明日なき浜は波の音

 眉顰む母の寝顔に雲の道

 弾かれたカードのような海の風

 鞄持つアバンチュールに船の波

 雪まみれ我がラプソディ街明かり

 満月や波に崩れるピアノかな

 満月やいざキャバクラを雪戻り

  月に萩狐の庭番波の音

 薔薇毟る突風に月の寒さかな

  

 洗濯物は新しき命か高架線

 金魚鉢震える夜のピアノ線

  

 朝顔を裏側からいつも母は褒め

 名月や胡蝶と見えて落ち葉かな

 秋深し貴人と見紛う月の客

 案山子にも優しき月の田圃かな

 怒るとき赤き痣もあり波の花

 月落ちて棚に侘しき林檎の香

 待ち侘びて寝しなに匂う桃の花

 深き淵に憂き手荒ばせピアニシモ

 青き香や影躍りだす縁の先

 寂寥に色染み貫かれ宙の花

 虹沓か二段重ねの花の列

 朝顔の影涼ろかに鬱の寝間

 朝顔の濡れ葉光らせ虹の宿

  朝顔の影を競える青畳

 風の手に大書せしこと母のこと

  屋根剥がれ遙けき風の昨日かな

 どんと花火残りの飛沫夜が舐め

 無残やな柳に月の曝し首

 紙にペン昔のペンだこそっと触れ

 寝そびれて夜を食み出す荒磯かな

 名月や昨日の寝間の蒲団かな

 爪光らせ怨念の庭の水溜り

 えびふらい今夜も暮らしを建て直し

 昼と夜うち違えたる波頭

 波走らせ遅れて届く花火かな

 鐘楼の一人暮らしを殷々と

 せせらぎが枕に届く月の宿

 枯れ尽きて波を枕の花火かな

 夏の夜は太鼓に似るや恋心

 やつ枯れて憎き事あり波頭

 名月や波邪しまな男前

 名月や斧で風切る波頭

 夕月を嫁ぐ娘に呉れてやり

 せせらぎに浮かぶ花あり旅心

 朝昼晩朝顔の鉢に水をやり

 留(ルー)・マニアの足穂(ターボ)星に郁也

 流鏑馬や弓手に月も届く頃

 行きずりの声も懐かし酉の市

 雛壇は西方浄土の模型かな

 

  ポトマック通信 NO.4 (H19.5.30)

 へのへのもへじに紙の爆弾。

 トンだ鴉が1羽・2羽・3羽・・・・X羽  

  

  ポトマック通信 NO.3 (H19.5.29)

 死庁舎に納める死税・ハンターイ!

 棺に納まる密議・ハンターイ!

 茂原共産党は台所の女中・こいつもオマケに大ハンターイ! 

 勲章の燻製は死刑。

 

   ポトマック通信 NO.2 (H19.5.28)

   

 <所見>は書けない。−何故なんです?

 事後責任を問われるからだ。−こいつは参った。特定の個人に被害が及ばないようにするのが「無過失責任主義」、公務上の配慮からするとかなりの逸脱ですな。どうやら無責任な盲目判がお似合いのようで。

 ゆっくり走るのは霊柩車だが、救急車は全然走らない。聞けば行き場がないのだそうだ。なんだか火を噴く赤ん坊の脳みそを覗き込むようでやりきれない。どうやら頭の回転が遅まきらしい。目的は場所ではなく命なのに!

 

   ポトマック通信 NO.1 (H19.5.27)

 飼い犬に手を噛まれ、思わず鎖を外してしまった先代だが、ハイエナを家畜と認定した本社社長には頭が下がる。なにやかやと面白くないことばかり続く中で、漸く怒りや憎しみも底を着いた。「腐ってもお前は鯛だったよ!」−これは如何にも気丈なお袋らしい言い草だ。しかも過去形。これでは褒められたのか貶されたのかさっぱりわからない。

 自分の影を踏んで立つのは自分だけ。実はそれどころの話ではなかった。人様の大きな影にすっぽり包まれ、はてさてどれが自分の影だやら・・・。<自己責任>とはよく言ったものだが、強気にしろ弱気にしろ、大方が番狂わせの責任転嫁で、みえみえの偽装工作でしかない。それも都市計画の往時には枚挙に暇のない代物。「再開発事業で夜逃げは日常茶飯」−こんな暴言が当地・駅前再開発ビルの現場最高責任者(当時・課長)の公式見解なのだから呆れたものだ。奴さん、引退後はあっけなく他界。頭の構造上の無理が祟ったのだろう。公私の線引きがとにかく滅茶苦茶なのである。本来セーフティネットであるべきところに大きな穴が空いている。そこに大義名分という罠が仕組まれていたのだ。忌まわしい本末転倒による犠牲者は未だに異常事態を引き摺ったままである。では最期に極めつけを一つ、−「法に人格はない」。これはこれは、まるでコンピューターに人格はないのと一緒。それでは一言云わせて頂くとしよう、−あんたの墓石に献花はない。

 

 <飛距離+アルファー>これがゴルフというスポーツ。

 ドライバー・ショツトは樹の幹でアイアン・ショットが枝だ。

 そこにパターの葉が茂る。

  プロとアマチュアではそれこそ樫の巨木と雑木林程の差がある。

 ゴルフ界に神童現る。15歳の少年がトーナメントを制覇して栄冠を獲得、これは史上初の快挙だ。女子プロの天狗たちは露払いのようなものだった。平均飛距離300ヤードはタイガー・ウッズ並。これだけでも世界に通用する力量がある。従来の姑息で意地の悪い選手たちとは違い、性格は温厚誠実、しかもシャイである。全く新しいタイプのゴルファ−が誕生した。時代が大きく変わろうとしている。慶賀なるかな、日本男児の時代きたる。ここで一度、カタヤマやイサワの肩こりをほぐすのも悪くはない。マルヤマは筋肉のお化けだ。

 飛距離は技術である。平均飛距離250ヤードよりも300ヤードの選手の方が技術的な完成度が高い。勿論、資質の違いだが、その技術の精妙さに関しては本人自身すら気付いてはいない。そっと神が袖に隠し持たせた如意宝珠とも言うべきか。

 ゴルファーを殺すのに刃物は要らない。グリップをほんの数ミリずらしてさえやればよい。

 「自立」は正しい信頼関係の結果だが、「孤立」は思い違いによる依存関係の結果である。

 

 介護には定型がない。即ち、マニュアルは役に立たない。

 看護には技術の積み重ねによるシステムと定見がある。

 延命操作は看護の範疇に入らない。

 延命操作では医療機関だけが生きている。

 カフカの小説「流刑地」を見よ、黙示録的な光景に驚かされる。

 

 「看護」と「介護」の違いが分らないのは技術偏重社会だからか?死の謎が究明されない限り、この区別は難しい。現時点での解釈はどうであろう。

 ナイチンゲールの名高い定義によれば<すべての病気は回復過程>にあることになる。看護はこの目的を実現するための手段。医術を医療機関の骨とすれば看護はそれを包む肉であろう。では老化(即ち寿命)も病気だろうか?それも癌や心臓病の末期症状の患者と同じく不治の病であろうか。

 この問題を臨床で抱え込むのが介護である。看護は文明の所産であり科学である。介護は人類の初源に遡る文化であり宗教である。

 看護は最先端の技術で語れるが、介護は奥の深い哲学的な課題であって、必ずしも正解が一つとは限らない。看護はその人のそばにあるが、介護はその人とともにある。人間的な信頼関係の輪の中で視点も手の動きも違う筈だ。看護は技術があれば足りる、だが、介護は間違いなく心の世界である。看護には繰り返しがあるが、介護は日々新しい。

 

 ごろ寝と死体の区別がつかないのが平和。動かないものは死体、これが戦争下の判断である。今次・経済戦争で死んだふりと言うのがあった。動かないことでは死体に、息をしていることではごろ寝に似ている。武器のない戦争には終わりがない。

 

 愛情というものは実に捉えがたいものだ。美醜善悪何れの主人というわけでもない。ほら、是この通りなどと見栄を張る人がいたら、それこそ大嘘つきもいいところである。愛情すら名誉となる自己顕示欲というものがある。死ぬ覚悟がなければ人は殺せないそうだが、死ぬ覚悟がなければ人を愛せない。

 

  睡眠が爆発したのがナイアガラの瀧だと思う。ところで僕は、夢の中でしかそれを見たことがない。

    

 

     見世物     

 

 地獄の火など浅ましいものだ。腹が立つとはとんでもない大阿呆だ。    

                   (アルチュール・ランボー)

 例えばかの中曽根元首相の尊大で姑息な一言「禊は終わった」。パブテスマに始まり十字架刑に終わったイエスの禊とは何という違いであろう。やれやれ腹が立つとはとんでもない大阿呆だ。

 例えば名前を思い出すさえ億劫な誰かさんの銅鑼声「わが弟です、息子です」。これはこれは、ようこそ狸御殿へ。議員のイロハはワイロでアロハ。ああやれやれ腹が立つとはとんでもない大阿呆だ。

 小泉前首相のパフォーマンス、結構長持ちする線香花火だったね。

こやつ、前代未聞の放火魔とは知らなんだ。ふう〜。

 阿部総理の髪の分け目が天頂に近づいて来た。どうやら真ん中辺で落ち着きそうだ。ファッショナブルだぜ、気をつけろ。腹が立つとはとんでもない大阿呆だ。ところで、もう地獄の火など御免だね。

            

     私小説

  

  草萌えて気澄み亘る峠道

     満月はサド侯爵の牢の花

    鞭打たれ崩るる花かサドが島 

  朧月夜急な坂道藻原寺

  石段の数忘れたり藻原寺

  岩清水青春の残滓煌めける

  天上を高しと歎ず世に生まれ

  浜辺には恋ある如く人と波

  月欠けて闇を手探る花と蛇

  アルプスに粉を撒きつつバイオリン

  滝つぼに崩るる花か朧月夜

  笛の音に昔を聞かば修羅の影

  武具(もののぐ)の野晒しの野に花荊

  何処に?十字架の下にわが定め

  満月にコーランの波の麗しさ

  風の掌に大書せしこと忘れたり

  野辺に出て花摘む如き俳句かな

  救急車菜の花畑を近景に

  満月やところどころに塗り残し

  暮れなずむ波打ち際の輪転機

  甲冑に野の声ありて掻き曇る

  怨念を塗り損ねたる月夜かな 

  

   

     

     母と・・・

   

   

   繰り返しシーツの皺を引き廻し

   介護タクシー母は頷いて乗り

   寝返って崩れる波をそっと受け   

   

   レントゲン母の城塞(しろ)とは思われず

   花の香は折れた枝より空に満つ

   

   日暮れても昆布はなさぬ荒磯の手

    

   日溜まりは好いとこ鳥の車椅子

   母の眼に蝶憎らしく朝の風

      熱測る手は短髪をかい撫でて

   いい顔ね綺麗な皺を眺めおり (弟嫁の来て)

   いい風ね波も綺麗に畳まれて

   手で掴む幸せが少しあればよい

   水の壁ふと息すればこの世哉

   枝と葉の包みを開けるオムツ替え

   裏山に月の出でたる風情かな 

   

   名月やピンと張られた凧の糸

       

   一日を音で親しむ水枕

       排泄物(おぶつ)にもしかと応える妻ありて

   送り迎え海月自慢の波の声

   影の国酷きとも思う日の介護

   荒ぶ香も弾む肉もなき衣替え

   梵鐘が削る山あり桜吹雪

   梵鐘や翳つくる池に氷雨かな

   

   阿久川に咽喉飴を放り投げたし

   

   高きより墜ちるが如き眼醒めかな 

   朝顔に蝶の来て舞う車椅子 

   山の声海の声きく六斎市

   老いの海牙を抜かれてのたり哉

   枯れ尽きて畳をさわるシクラメン

   廃船に盲の如き蝶の群れ

   破船より覚束なきは蝶の影

   戸袋に仕舞うが如く日々を終え

   鳥飛べど積雲何故か動かざる

   日に三度異なる顔とは思われず

   遠国で虹の惨事を知る人もなし

   指立てて詠みし短冊光の矢

   鐘楼の纏めて射たり桜吹雪

   鐘の音にことりともせぬ茶の間かな

   鐘の音に釣り合う波の高さかな

   機関車の夢尽き果てる水枕

   天井を知らない仲とは言い難し

   麗しき歿陽ありて腕を組む    

   老いの日を我が手に探る介護かな

   裂かれては砂に影散る波頭

   独り居の和室に潜む寝息かな

   日々新筍を剥くが如き介護かな 

      

   

   

       

      子らの背に・・・

 

   捨てがたきは朋の未来の青さかな

   世を捨てて白鳥一羽悲しかるべし

   夕筒やわが珠も砕けよ子らの背に

   歿陽は明日の事業の船着場

     

   

 

 絶対とは死に至る病である。神は自己増殖で我身を損なう。神は私達とともに死ぬ。

 自己研鑽、これだけだ、人生の処方箋は。自分らしくないものは全て無駄ごとである。 

 一票ならぬ一発、万票を断つ。長崎市々長、提灯の下で銃弾に倒れる。帰宅の袖を引く火薬の匂い。(4/17)

 

  <影太り>例えば珍しくメディアに登場した超大物がそれ。おや?と思ったらやっぱりSGI名誉会長の池田大作だった。来日中の温家宝首相と握手する映像がほんの一瞬、お茶の間に流れた。熱烈と言う表現がそぐわないワンシーンとなったのは無理もない。一方で握り返さないからだ。スポットが当たるやいなや実在感がなくなる、この熱烈病患者は、字幕によるとこんなことを口にしたらしい。「政治家としてではなく、庶民の王として・・・」 自分がそうだから是非あなたも?−この人の神経はどうなっとるの?通訳不能?

 大木の瘤に被れて湿疹だらけの信者が「自己責任」の名で快癒するのは、大木の影にすっぽり収まる時である。(4/15)

 

 頂上対決が谷間の私闘となった。イチローもマツザカも脇が甘すぎてお話にならない。日本人・日本刀忘れ、背中に刀。二人とも外道の佐々木小次郎である。何が面白くて日日対決なのか?米国側は30億ドルの価値を満喫したいだけだ。日米対戦はブーイングに始まる。(4/14)

 

 難破船の破片を拾い集めて復元する作業。そんな読み方を強いられる文章がある。魅力的な悪文ならいざ知らず、説明文では救いようがない。悪意は一種の見識だが、無知は習慣の恐怖である。リコーじゃないが馬鹿じゃない。(4/13) 

   

      無題

  満月や目隠しされて露天風呂

  雷(いかずち)に断ち切られたる凧の糸

  母の手がキャベツを洗う千切れ雲

  曇天や桜の道の遠さかな

   

    幼年思慕 

  繰り返し竿で迎えるギンヤンマ

  肩越しに蝶も来て舞う馴染み客

     井戸端に満月が来て顔を洗う

   子等二人すったもんだで蚊帳の外

   忘れても忘れなくても樋の花

 

   有事

 平和のための犠牲的要請、それが嵩じた場合が戦争である。

 崇高な精神は敗者側にある。

 勝者は地を継ぐが、敗者は天上に交わる。

 

   影

 発見のきっかけである当のものが、

 創造の妨げになる場合がある。

 偶然が必然を覆い隠す。

 神からのプレゼントは

 取分け慎重に包み紙を広げねばならぬ。   

 

   造反分子

 会社を私物化した者は社会で死物化する。私なら、そう思う。

 目覚めの遅い者は夜目の効くこそ泥である。逃げ足ばかり速い。

 もし、こんな手合いにチャンスが残されているのなら、それこそ社会自 体が死態である。悔いの納まる処がない。

 

     プロの道

 思い切り叩け。

 狙い通りに打て。

 パットを外すな。

 ゴルフのプレーに関してジャック・ニクラウスはこれ以上のことは何も言っていないように思われる。事実、18ホールは深海の沈黙の世界である。耳を澄まし、眼を細めて、獲物(グリーン)を我が物にしようとして、時たま、アイアンの銀の尾鰭が鋭い光を放つ。遠くのものが自分自身に1番近い、これが彼にとって唯一の勝利の公式であった。

 

     茶話   

   隣で、家内が熱中するテレビ画面を尻目に、一日一度は、ホッと一息つく珈琲タイムがある。そんな時、まさにお誂え向きの読み物が俳句大歳時記。小説では筋が浮きすぎ、哲学書では中身が重過ぎる。これなら、夜の耽るのも忘れ、滋養に包まれて熟成する空気にしっくりと溶け込むことが出来る。意識のビタミン剤のように、知的活力の源泉として慣用化するのも悪くはないだろう。

 私自身の存在は5・7・5の<発句>で、傍らの妻は<脇>となって7・7で受ける。この役割分担は輪番制だから、各々が独立していながら、コミュニケーションも円滑でそこそこに心地よい。しかもヴァリエーションも豊富だ。こうして起承転結を繰り返しながら夜を徘徊(俳諧)するわけだが、その<挙句>は翌朝の目覚めの良さ、と言うことになろう。

 浅田真央は蕾のまま開花宣言された桜のようだね。

 マスコミに邪魔されて王子様の出番がないのよ。

 女王様の自惚れ鏡は北風のガードが堅い。

 まだまだ寒さが続きそうだね。

 

   女の浅知恵

 誰が最低を自認出来るだろう?もしそれが出来たとしたら、それこそ最高の賢者とは言えないだろうか。(さんまさんの最低男は論外)。最低の最低性は、自分の尺度で測られた通りではないかもしれない。従って誰もが、最低という「人によって異なる価値観」に殊更興味を持つことにもなる。一種の覗き趣味である。最低もしかしたら最高かもしれないではないか。

 荘子は一瞬に60刹那があるという。中身が濃いということだが、朝に道を聞いて夕べに死ぬ。即ち、荘子の一日は千年に値する。隣同士で会話が噛みあうのも一周遅れのランナーまでである。

 「理解」とは、或るタイプの人間にとって「死」を意味することになるらしい。元々、不純な血が彼らの中で騒ぐのだ。「真実」は犠牲を伴う。だが不純な人たちの血は犠牲と関係ない。悪人は自然死する。犠牲は浄化の儀式である。しかし、彼らは理解するだろうか?ほんとうに理解出来るだろうか。犠牲とは何かを。

 「私生児」が議員のバッチをつけたら犯罪行為で政治的背信となるだろうか?「選挙」とは人間出直しの場であり、極道だって政界入りする。道徳的に正しいことが政治の力となれば、よい政治がおこなわれるとは限らない。羊を取り巻く狼が羊の世界をつくり、縄張り争いをしている。目下の処は輪番制で、それが選挙制度である。鶏が白墨で周りに輪を描かれたら動けなくなると言う。幸せとは自分自身に正直に振舞うことでしかない。羊が羊でいられるのは狼たちのお蔭である。妙な世の中に生れ落ちたものだ。

      登頂

 悪人は後悔するが、善人は反省する。

 未来とは記憶の城である。後悔の霧の中では道を失う。

 反省の頂きで人はなんと孤独なことだろう。

 眼下の岩場では未だに霧が晴れない。

   日に千回の鞭打ち

 <何を今更>は、<よくぞ此処まで>と同意文言である。土壇場の言い掛り等と母親に思わせるのは正気の沙汰ではない。私はゴ−レムの一撃で歯を折られ(最も義歯ではあったが)、二度撃ちつけられた頚筋は季節不順の折はずきずきと痛む。石頭が口角泡を飛ばす光景は父の最も恐れたものだった。奴さん、胸を叩いて雄たけびすら上げたのだ。眼鏡は予め外しておいたから損傷を免れた。馬鹿は二度同じことをやる、というからね。ところで<こん・なごめ!>とは一体、何処の国の言葉だった?ルワンダにもピョンヤンにも見当たらない。

 悲しいかな、忘れることが人を変えたりはしない。

   後知恵 

 転ばぬ先の杖と言う。先人が転んだ後で考え付いた言葉だ。人はいつ間違いを仕出かすか分らない。唯でさえ足場の悪い処へ、石を並べて、その上、重荷を背負わせる奴がいる。失敗を囃し立て攻め立てるのは決まってそんな悪趣味な手合いである。ところで、高見の見物と決め込んだまではよいが、問題回避と責任転嫁の自製のカクテルでしたたかに酔い、本心を失ってしまい、間違いに間違いを重ねてばかり。つい最近、カウンターから転落して腰の骨を折り再起不能となった。彼にとって、自明なことは聞くに堪えず、わけのわからぬことこそ救いなのだ。堕胎はヒステリーの母である。<元を断つ、結果がすべて。>この金科玉条、まるで冷酷非情のカポネのようだが、情けないことに身内以外に恰好のカモはいない、家庭破壊の常習犯である。戦略と言う鍋を叩いて魔女の呪文を繰り返し呟いているだけだ。自業自得は眼に見えている。家族によるリンチは、場合によって、政治犯の拷問より陰湿でたちが悪い。 

   信仰の道

 生きることは容易い、だが生きようとすると苦しむ。

 意志と断念の遥か彼方に真実の生はある。

  

   偽善者

 一日三食を二食なんかにして見給え、忽ち四食分を摂ることになる。歌姫マリア・カラスはサナダムシを消化器官に飼い、食べたいだけ食べて、かっての巨体からは信じられない美貌を勝ち得た。前者のダイエットは偽善者のそれで、不自然この上ない。自然を味方にしてこそ本物である。

  

   自由主義 

 生か死か?相変わらず問いは霧の中だ。

 

   民主主義

 声がかかると、途端に私は私でなくなる。

 誰でもない誰かが一歩前に出るだけで。   

 

        コラム (2007/02/07)

 

            違反義歯とは言わないが 

 吹き上げて止める球よりも、着地後のランが出る棒球で飛距離を稼ぐ。−これが昨今のセオリー。ゴルフは道具と共に戦略も変化する。今では、バックスピン効果をグリーン上の至芸とは誰も言わない。ゴルフ場の設計理論も変わった。パターのヴァリエーションは数え切れないほどだ。しかるに、二クラウスやベン・ホーガンのようなアウラに包まれた選手を明日のトーナメント戦で発見することは難しい。技術が道具に呑み込まれ、闘魂すら鈍磨する。選手のキャラクターも面白みがなくなった。拝金主義ならぬ拝具主義でゴルフは世俗化する一方である。新車のキャンペーン・ガールでは物好きなギャラリー以外は集まるまい。特に我国では女子ゴルフの人気が高い。

 むしろ、多くのビジターにとっては、少年、青年、壮年、老年、と年を重ねながら、ハンディキャップ15なら15をどうキープするかが専らの関心事である。勢い、道具絡みの加齢との闘いがゴルフの奥深さを物語ることになる。道具との馴れ合いでスコアメイクの中身が変わるのだ。2オン3パットが3オン2パットに、1オン2パットが2オン1パットに。ドライバーショットの飛距離が落ちてバンカーの名人になる等。焼きの廻ったリカバリー・ショットが、多分、前面に出るだろう。ちなみに「40歳からのゴルフ」などと、それらしいイメージもあるようだ。ゴルフが生涯スポーツと言われる所以だが、ヒトは生まれながらに三本足の動物なのかも知れない。

 長尺から女性用ドライバーに持ち変えることで、残り13本のクラブの使い道も変わってしまう。2打目の6番アイアンが4番ウッドに、アプローチにサンドウェッジが加わるなど、20〜30ヤードのロスをリカバリーしなければならない。元はと言えば、パワーの衰えからくる軸のブレが原因の応急処置である。抜本的な対策はない。スコアメイクは良くてプラス・マイナス・ゼロ。OBの4発とバンカー・ショットの8回を等価交換したようなものだ。

 スコアメイクは歯から。そろそろ引退を考えなければならない。ところで違反クラブに相当する、違反義歯と言うのはまだ聞いたことがない。何れ人体のサイボーグ化が問題になるだろう。パーシモン時代の自然の親和力の体感が懐かしい。

 「パターは別のゲームである。」−これはベン・ホーガンの有名な言葉だが、交通事故による視神経障害をカモフラージュするためのデマゴーグでもあった。いっそのこと、ゴルフとは別の、・・くらいの含みを持たせたかったであろう。プロのリカバリーはこんなところにもある。

 ミケルソンは二本のドライバーを使い分けてスランプを克服し話題を呼んだ。四角いデカヘッドは46インチの長尺物、320ヤードを点で狙うには恰好のストレートが持ち球とか。一方、ミドルの攻略は45インチのフェード用で。梨型の美形は時代遅れになるかも知れない。フェアウェイキープは死語となり、ホールインワンなど朝飯前、そんな時代も満更夢ではなさそうである。

 残り13本のクラブの編成を見直す労力と時間を思えば、長尺を女性用ドライバーに持ち帰るメリットは殆どない。第一、ミドル・ホールの2打目とショート・ホールのティーショットでアイアンを選べないようでは、緊張感が生まれない。総身を走り抜けるパニックで意欲も情熱も綺麗に削ぎ落とされてしまう。悲しいかな、これが現実である以上、ベン・ホーガンの言い草ではないが、「ゴルフとは全く別のゲーム」である。

 

            

 

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